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甲地村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。七戸通に属す。村高は,「天保8年御蔵給所書上帳」478石余(御蔵高367石余・給所110石余),「旧高旧領」497石余。なお,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村の名が見えず,これらには板橋村として見える。「邦内郷村志」では,家数309,集落別内訳は本村24・李沢7・甲田9・長久保6・土橋14・蓼内4・鶴ケ崎4・舟ケ沢5・漆玉3・田野沢6・狼沢3・野田頭2・水喰16・級木3・細津3・萌出11・切左坂5・寒水5・コブノ木4・籏屋10・千引6・夫雑原8・長者久保8・塔野沢7・横沢10・淋代15・数牛3・下板橋8・上板橋23・清水目4・添之沢7・宇道坂2・乙供9・向旗屋4・乙部7・保戸沢8・内蛯沢17・外蛯沢19。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の上,家数188,集落別内訳は本村14・長久保5・蓼内3・土橋9・鶴ケ崎3・船ケ沢2・漆玉7(給人1)・狼沢1・切左坂2・野田頭3(給人3)・萌出5・細津3・級ノ木1・水喰5・田ノ沢1・甲田8・李沢2・寒水5・栃ノ木4・籏屋3・向籏屋4・中村5・乙供10・内蝦沢11・外蝦沢12・保戸沢7・乙部6・千引2・夫雑原3・長者久保3・塔野沢4・横沢4・淋代7・数牛2・上板橋10・下板橋1・添野沢4・清水目7(給人6)。家数が急減しているのは天明年間の飢饉の影響によると考えられている(篤焉家訓)。正保4年~天和4年の給人は,清水目助三郎9石余・籏屋与五郎2石余・野田頭仁右衛門1石余・甲地吉右衛門4石余(7戸御給人小高帳)。天和4年には給人4人で18石余。また53年後の元文2年「諸士給人知行出物並境書上」では,野田頭7人で29石,籏屋1人で5石,清水目5人で26石余,甲地2人で3石。また主な給人は清水目左衛門11石・中野宇之助10石・野田頭茂左衛門7石らで,ほとんど米・粟・大豆・稗・蕎麦の産物と馬飼いなどで生計を立てていた。田と畑の割合は元禄10年では1対4.5になっている。寛延4の入山札の改めによって,例年の慣行であった清水目春木の野辺地川流しの作業が大幅に遅れ,七戸代官所と野辺地代官所間においてそれぞれ処置されたとあるが,この時の現地関係者の中には御山目付の清水目又左衛門・清水目新之助,御境奉行野辺地権右衛門,御山奉行駒嶺善九衛門・中原平左衛門らがいる(日本林制史資料)。宝暦7年には清水目山ほか3か山の檜山運上人が定日以外の取扱いを行った事件があり,同9年には板橋の山守が長寿院様法事によって追放をゆるされている(雑書)。七戸通の場合には,その内部をさらに11通に分けたが,当村に関係ある通は北川目通・北山通・東郷通で,北川目通に属する集落は本村と以下枝村の長窪・蓼内・土橋・舟ケ沢・鶴ケ崎・漆玉・田野沢(浜漆玉)・狼沢・野田頭・水喰・中,籏屋・坊ノ木・冷水・萌出・吉嵯坂・級ノ木・川原町・北山通に属する枝村は千曳・下板橋・上板橋・清水目・漆野沢・宇道坂・長者久保・夫雑原・塔野沢・横沢・淋沢・数牛,東郷通に属する枝村は外海老沢・内海老沢・乙供・乙部・保土沢・向籏屋である(天保7年七戸惣郷村名附・文久2年七戸領村名附)。寛政2年高山彦九郎は,「北行日記」において「是れより原山を経る夫雑原と称す。小道二十里半にして石文村家二軒,与右衛門なる所に休ふ茶など出だしてもてなしける。野辺地より巽に来る,飢年前には六軒有りしか二軒のみ残れりと語る」と記し,享和2年「東案内記」では,「石文村此所家三軒有,此村にして菅笠菅莚などを織りて日頃のいとなみすこし行と也,夫より暫く行は山林又は左右の並木路を段々と行は,夫雑原村此所家三軒有て武蔵野か原ともいふ,少し行は長者久保村,是にも家七軒有,村を出十二丁行は七ノ戸野辺地両境也,段々坂下り行は無程鳴子館大坂有,鳴子館坂といふ」とある。また嘉永2年の松浦武四郎の「鹿角日記」では,「長者ケ窪人家十四軒よりに野辺地に一里,此間松林雑木多し……是より松林半里斗にて,フトウ原村人家三軒,畑少しありとも只稗のみ作り野菜は大根と仙台蕪の方何もなし……碑村人家五軒,前に同じき畑少し,大豆を多く作る,此村と千曳村とわずかにへるのみ也」とある。長者久保の熊野大権現には寛政5年の棟札があり,横沢の八幡権現社には宝暦12年の棟札と享和2年の鰐口がある。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。同年上原和兵衛の陸奥紀行には,「石踏村と申処也といふ村家5軒にて至而貧窮之村なりといふ……常々稗や粟を食し,米は不足なれば病人の外食せづといふ。組合之村数十三ケ村在りけれども高々漸々五十石なり,依而山木をとり野辺地町へ持行渡世とす」とある。同10年甲地小学,同11年蛯沢小学,同14年清水目小学・寒水小学が開校。同15年蛯沢・清水目・寒水の各学校が合併され,同19年甲地簡易小学校と改称。なお合併時に置かれた分校も同年それぞれ小学校として独立した。明治初年の戸数362,村況は「土地荒漠にして平野池沢多く,西は山岳屏立して人跡希に至るの所たり,且境内田少く畑多し,知磽磽にして力を尽せとも一夫一口の飼を得安からす。本支の在々共に皆牛馬を牧ひ,或は北海道に傭役し,湖辺の在々は漁網を事とし,山民は材薪を産とす」とある(国誌)。同11年上北郡に属す。同年頃の村の幅員は東西約7里・南北約2里,税地は田260町余・畑875町余・宅地43町余・林3町余・秣場47町余・原野122町余・萱野27町余など計1,381町余,戸数379・人口2,911(男1,526・女1.385),牛412・馬の1,495,小船21(耕作船13・漁船8),学校2(生徒数38・女2で計40),物産は米94石余・糯24石余・稗93石余・大豆216石余・粟236石余・そば788石余・小豆39石余など(上北郡村誌)。同12年の「共武政表」によれば,戸数183・人口1,524(男780・女744),牛253,馬700,学校2,物産は米・檜・大豆・蕎麦・稗。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7250587