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木作村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,元文元年検地帳369石余(田339石余・畑屋敷29石余),「天保郷帳」375石余(うち弘前本では寛政10年改出新田298石余・文化9年改出新田76石余),「旧高旧領」では木造村と見え375石余。寛永末年上木作村から分村して成立したといわれ,寛文年間頃には地域の中心地となっている(西津軽郡史)。天和3年の広須御新田所図には「小館」と見える。岩木川流域の新田開発が進められるとともに,天和年間には当村に新田役所が設置され,新田取立方が置かれた。のち,新田役所は代官所となり,代官が置かれ,新田を中心とする開墾・行政を管轄し,あわせて土堰奉行も置かれ水利関係を管理した。また,藩主が開墾地域を巡察するために,貞享元年当代官所構内へ御仮屋が設けられ,以後歴代藩主の巡察に際し利用された。貞享検地の時に組が定められてからは,当代官は広須組,および広須新田を支配した(西津軽郡史)。なお,宝暦4年広須組と広須新田を組替えし,広須組(一部広田組へ編入)と木造新田になってからの当代官所の支配地域は広須組・木造新田である。当村は享保12年に広須新田木作通り35か村のうちの1村として見え,村位は下,免合は六ツ成とある(平山日記)。元文元年の検地帳によれば,反別は田48町4反余・畑屋敷5町8反余。当村は新田地帯の中枢で人馬の往来が激しく,古くから宿駅と定められ,藩から伝馬に対して下賜金があった(木造町沿革史)。十三街道の駄賃は,文久4年御領分中駄賃定(弘前図書館蔵)を見ると,川端村~木作村間27町で本荷夏17文・冬22文,軽尻夏11文・冬14文,歩行夫夏8文・冬10文,木作村~薦槌村間1里14町22間で本荷夏32文・冬42文,軽尻夏21文・冬27文,歩行夫夏16文・冬21文となっている(県歴史の道調査報告書)。街道に沿って町場が発達し,江戸後期には鰺ケ沢【あじがさわ】から物資が移入され,岩木川下流域諸村へ供給する中継地としての重要性が高まった(西津軽郡史)。寛政10年に馬市が立ち(平山日記),弘前・青森とともにこの頃の領内三大馬市の1つに数えられている(弘前市史)。当村は,享保20年・天明3年など大火に見舞われ,代官所・仮屋をふくめ多数の家屋が焼失している。寺院は,元禄14年長福寺南貞の開基という地内曙の浄土宗長広山蓮光寺,貞享年間浄円寺良得の開基といわれ,はじめ郷志庵と称した地内清水の浄土宗十方山光照寺,慶長2年下古川村に日道が開基し,元禄2年当村(現千代町)に移され,同14年寺号・山号を許されたという日蓮宗法光山実相寺,実相寺に隣接する元禄5年の創立という浄土真宗鶴遊山西教寺,西教寺に隣接し元和元年の創立(延宝2年・天和元年の説もある)という浄土真宗大谷派澎山(もと法誓山)慶応寺がある(享和3年寺社領分限帳・西津軽郡史・国誌)。嘉永年間当村出身の碩学菊池祐義が時習学舎を設立,経書などを講じ学ぶ者が多かったが,のち明治6年廃止となる(西津軽郡史)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年西津軽郡に属す。明治初年の戸数218,村況は「平地に住し戊亥より辰巳の方に長十丁余に比軒し店を開き酒餅雑什を売る,依て近里こゝに集て用を弁す,又この外下木造村及七小区上木造村吉岡村蓮沼村の五村相続き此の区の一大邑なり,されは鰺ケ沢より出張所を置き療病所を設け,土地は下等なれとも水田多,余産なく只農民の他は工商を以て活計とす」といい,また,上木作村との間を流れる古田放について「古田放と云は古田地堰の余水を放流すれはなり,蓮花田・永田・吉水・石館・千年等の諸村の地を経て当区館岡村の境内にて山田川に入る,長二里巾四間水深四尺」と記す(国誌)。明治5年の戸数452・人口3,050(木造町沿革史)。同6年慶応寺を仮校舎として第7大学区第14中学区四番小学が開校,翌7年木造小学と改称,この時の生徒数男123(県教育史)。明治7年木造郵便局が開局,同10年木造警察署が設立。明治9年上木作・下木作・吉岡・蓮沼・升館・松岡の6か村を合併。同12年の「共武政表」によれば,戸数459・人口2,375(男1,215・女1,160),馬112,人力車16,寺院3,学校2,物産は米・糯・大豆。明治13年冬期の風雪を防ぐため,岩木川沿岸より柳を約3,000本集落の西側に植林している。同16年町村組合が設けられ,上相野・下相野・広須・玉水・蓮花田・濁川・下遠山里の7か村が当村と組み合わされる(西津軽郡史)。同17年公立柳高中学校を母体として組合立の向陽高等科小学が開設。同19年上相野に育成尋常小学校を置いた。同22年木造村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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