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木造町(近代)


 明治34年~現在の西津軽郡の自治体名。村制時の8大字を継承。明治34年の町制施行時に県立第四中学校(現木造高校)の誘致に伴う土地買収費をめぐって,大字木造とほかの7大字とが対立し,7大字が分離運動を起こしたが,町会議員数が半々で決着がつかず,9月木造と下相野の間で暴動が起こり,10数人の死傷者を出すに至ったため,県の裁断で7大字の分離が命ぜられ,明治37年上相野・下相野は森田村へ,広須・玉水が柏村へ,蓮花田・下遠山里が出精村へ,濁川が柴田村へそれぞれ編入され木造町は大字木造の地域のみとなった。また,同時に大字木造を廃し,当町は大字なしの地域となり,木造・松原・蓮沼・千代町など10数の通称地名がある。明治37年の戸数545・人口3,363。大正9年の世帯数660・人口3,518,うち職業別人口は,農業897,水産業12,工業813,商業1,011,交通業98,公務・自由業261,その他426。大正13年陸奥鉄道が開通し,木造駅が開業。同鉄道は,昭和2年に国鉄に移管され,東能代~川部を結ぶ全線が国鉄五能線として開通したのは同11年。現在も重要な交通機関として活用されている。木造駅以北は五所川原を起点とするバスによって結ばれている。明治40年柏村の一部,同43年柴田村の一部を当町に編入。当地方は,江戸期の木造新田の開拓精神を継承し,独特の文化とバイタリティーを持ち,屏風山砂丘地の開田と開畑に取り組み,日本一の屏風山スイカを産出した。かつては泥炭層から掘り出した「さるけ」を燃料とし,津軽地域で最も大地主が発生したところでもある。地目別総面積の48%(5,800ha)が水田であり,圃場整備事業も実施され,砂丘地屏風山の開畑と相まって農業地帯として飛躍しようとしている。米とスイカ・メロンが主産である。兼業種別農家数は,昭和35年専業2,453・第1種兼業463・第2種兼業355,同45年専業776・第1種兼業1,898・第2種兼業624,同55年専業382・第1種兼業1,492・第2種兼業1,136。主要作物別の作付面積は,昭和45年水稲4,730ha・芋類17ha・野菜242ha・果樹(リンゴ)58ha・飼料作物15haなど計5,085ha,同57年水稲4,270ha・麦類313ha・芋類31ha・雑穀類100ha・豆類115ha・野菜1,310ha・果樹63ha・工芸作物36ha・飼料作物842haなど計7,080ha。また,馬市は江戸期から盛んであり,明治36年西津軽郡馬産組合が産駒セリ売りを開始し,これより木造を産駒セリ売地と定め,同44年当町字照日の四馬場地にセリ売場を建設し,大正元年に西・北津軽郡の産馬組合のセリ売場となった。毎年9月初旬に開かれる馬市は非常ににぎわった。第2次大戦後の農業機械化により馬の需要は減り,馬市は消滅したが,馬市まつりとして往時のなごりをとどめている。昭和30年川除村・出精村・柴田村・館岡村・越水村の5か村と鳴沢村の一部(出来島)を合併し,合併各村の32大字を継承したが,同33年大字小曲を五所川原市へ編入。同41年に柏村との間,同51年稲垣村との間,同52年5月・12月に森田村との間,同53年9月・12月に稲垣村との間,同55年5月には五所川原市・柏村との間,同年9月には森田村との間,同56年3月に柏村,同年9月には森田村との間,同年12月に稲垣村との間でそれぞれ境界変更を実施した。世帯数・人口は,昭和5年766・4,161,同15年864・4,651,同35年4,999・2万9,105,同40年5,213・2万6,296,同55年5,856・2万4,551。就業別人口は,昭和35年第1次産業1万337・第2次産業667・第3次産業2,411,同45年第1次産業8,513・第2次産業860・第3次産業3,069,同54年第1次産業7,085・第2次産業1,388・第3次産業3,256。屏風山の砂丘地帯には多くの湖沼があり,ノハナショウブ・ムシャリンドウ・ニッコウキスゲなどの湿性植物が群生し,昭和50年津軽国定公園に指定された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7250750