是川村(近世)

江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領,寛文5年からは八戸藩領。八戸廻に属す。元和4年の南部利直知行宛行目録(南部家文書)に「是川」「下是川」「ほろこ」とあり,近世初期は根城南部氏の知行地であった。村高は,「正保郷村帳」282石余(田161石余・畑120石余),「貞享高辻帳」282石余,「元禄10年高帳」914石余(田368石余・畑546石余),内訳は上是川432石余(田205石余・畑227石余),下是川288石余(田101石余・畑187石余),頃巻沢123石余(田10石余・畑71石余),石手洗70石余(田10石余・畑59石余),「天保郷帳」731石余,「旧高旧領」714石余。当村は上是川と下是川からなり,「八戸藩日記」寛文8年11月の条に「上下是川」と見える。本村は南の上是川に置かれたと考えられ,現館前周辺に当たろう。領内制礼場の1つで,天和22年是川および天狗沢に制礼が設置された(八戸藩日記)。登り街道沿いに位置する天狗沢と番屋には天明2年肴荷改所,安永7年鍬鋤鉄荷改所も開設された(八戸藩勘定所日記)。寛文年間以降,母袋子【ほろこ】の山ではしばしば木材の伐採がなされ,八戸城下に運び込まれた(阿部家文書)。山守として近太郎の名が知られる。石の切り出しもみられ,寛文9年盛岡に砥石が送られ(八戸藩日記),安永元年には町堰用の石運搬などが当村に命じられた(八戸藩勘定所日記)。「八戸藩日記」寛文8年11月の条に「追鳥被仰付上下是川石たらい中井林右四ケ所ニて雉子弐拾九羽取上」,翌9年10月には「妙野・松館・是川三ケ所雉子御運上壱歩判壱両弐歩」などとみえ,雉子などの狩猟地ともなっていた。「八戸藩勘定所日記」文化4年9月の条には「是川風張之橋河原より堀田ノ袋迄」とあり,青鵐の追場所とされた。漆かきの巧者に天狗沢の孫作がおり,元禄6年指導者として葛巻通に出向いている(八戸藩勘定所日記)。一族は櫛引八幡宮の縁日で漆器を売り出したといい,八幡駒の創案者とも伝える。寛政2年7月には,当村の紺屋連中が藍の高値を理由に染賃の値上げを願い出ている。安静4年には八戸藩士の蛇口伴蔵が母袋この地蔵沢から城下南方に水を引くべく計画した(同前)。洪水にたびたび見舞われ,「雑書」承応2年8月の条に「八戸之内是川,松館,川目,十日市,新田,湊迄,洪水ニて田畠川押成ノ由」とある。寛文7年8月には上是川で死者14人を出した馬8頭・牛1頭を失った(八戸藩日記)。天明5年8月の大雨洪水では風張橋・妻ノ神橋・差波橋・金や橋・堀田袋橋・中居橋の6橋が落ち(八戸藩勘定所日記),同7年5月の被害は「田形千九百五拾苅 内千弐百苅水押・四百六拾苅砂理・弐百五拾苅川欠,畑百七拾六つ役半 内八拾九ツ役水押・六拾弐役川流・弐拾五役川欠」に上った(同前)。火事は正徳5年4月に13軒と馬6頭(同前),享保5年5月に26軒(八戸藩日記),天保8年3月には11軒を焼失(同前)。寺は,真宗大谷派の楞巌山清水寺と真言宗豊山派の八鳩山福善寺がある。清水寺本堂の西には清水寺観音堂があり,天正9年および慶長18年の棟礼を所有。糠部三十三観音の第2番札所とされ,間口3間・奥行3間からなる単層・宝形造の同堂は国指定の重要文化財。館前には新山神社がある。明治4年八戸県,弘前県を経て,青森県に所属。明治初年の「国誌」は,「土地下之下。田少く
足らす」と記し,北海道に出稼ぎする者がいるという。また,支村は12か村を数え,家数は本村41,支村の中井24・田中15・番屋8・天狗沢14・差波24・母袋子17・西山8・水井野8・岩ノ沢31・妻ノ神35・志民22・風張35。津梁としては妻ノ神橋・風張橋・差波橋の3橋を記載。明治9年是川小学が開校。明治12年の「共武政表」によれば,戸数・人口は本村46・292(男159・女133),中居28・138(男86・女52),田中20・121(男66・女55),学校は本村1,寺院は中居1,牛は本村4,中居1,馬は本村33・中居33・田中15,物産はともに米・麦・雑穀・蔬菜・麻糸・酒・鳥類。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7250968 |





