佐井村(近代)

明治22年~現在の下北郡の自治体名。佐井・長後【ちようご】の2か村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。役場は明治22年に佐井字大佐井,大正3年佐井字大佐井目,同14年以降は佐井字糠森に設置。明治22年の戸数323・人口2,172。同24年の戸数289・人口2,260,厩33,学校2,船398(徴発物件一覧)。大正9年の世帯数518・人口3,202,うち職業別人口は農業1,043,水産業1,429,鉱業35,工業197,商業194,交通業79,公務・自由業102,その他の有業62・無職業61。昭和34年の993世帯・6,124人をピークに,出稼ぎ・離村により過疎化現象を呈し,同55年は1,139世帯・4,174人となる。同57年の出稼者は451人を数える。明治以降陸の孤島的存在であったが,交通機関の整備にともない発展の度を加えてきている。大正8年機帆船が佐井~青森間に就航(奥佐運輸),昭和31年佐井集落~磯谷集落間に小型自動車道開通,同42年磯谷集落~牛滝集落間に佐井海岸林道完成,同43年県道佐井川内線(カモシカライン)開通,同45年佐井~大畑間を結ぶアスナロライン開通,同57年には県道大間脇野沢川内線(海峡ライン)が国道338号に昇格している。この間昭和49年から佐井~磯谷間に下北バス運行。これらはいずれも生活道路・産業道路とともに,願掛岩や仏ケ浦への観光道路としても利用され,観光立村としての性格を有してきた当村において重要な役割を果たしている。佐井から仏ケ浦に観光船,佐井~青森間に下北汽船も走る。明治29年貴族員議員柴原和は国鉄東北本線野辺地駅より下北半島に分岐して大湊を通過し,川内・湯野川を経て佐井に達する大佐鉄道,および佐井港の修築による北海道との海陸連絡を企図したが失敗に終わっている。これは後に佐井港湾建設運動に引き継がれ,昭和15年ほぼ完成し,同26年県費支弁港に編入された。現在原田・矢越・磯谷・長後・牛滝・福浦にも漁港をもつ。明治中期以後国有林の締出しによって,村民再生産における漁業の重要度が高まるが,大正11・12年から不漁となり,少ない水産資源をめぐって佐井と長後の漁民が対立し,同12年佐井村漁業協同組合の分割事件を生じている。昭和40年新規に佐井村漁協設立。佐井営林署は明治23年佐井小林区署として開庁,大正13年担当区事務所を古佐井・大佐井・長後・牛滝に設置,昭和4年大間営林署の新設により大間町所在の国有林管理から離れ,佐井村一円の管理となる。明治末期頃より鉱山開発が行われている。大正2年村長から県知事宛の「一村ノ公益ニ関する意見書」(佐井村誌上巻)によれば「至ル処鉱業頻リニ行ハレ今ヤ本村ニ於テモ拾数箇所ノ鉱区ハ出願セラレ三箇処ハ既ニ着業セラルルニ至ル,就中寺田帰省ノ経営スル大滝鉱山ハ其ノ労空シカラズ遂ニ良鉱脈ニ接シ将ニ鎔鉱炉設置精錬ニ着手セントスルノ計画アリト」とある。鉱種は豊富で金・銀・銅・亜鉛・硫化鉄・石灰石に及ぶ。この中で「是ガ為メニ一大惨禍ノ吾人ガ頭上に落下セントスルヲ夫レ鎔鉱精錬ヨリ生ズル煙毒鉱ドクの恐ルベキハ世既ニ定評アリ……今若シ大滝鉱山ニシテ一朝官許ノ下ニ鎔鉱精錬ヲ創ムルニ至ラバ忽チ煙毒ハ瀰蔓シテ我ガ植林及ビ農産ヲ侵シ鉱毒亦海ニ流レテ我ガ水産ノ主ナル海草魚族貝類ヲ斃死絶滅セシムルヤ必セリ」とあるのは注目される。昭和26年日窒鉱業佐井営業所採鉱開始,同33年閉鎖。野平は昭和19年人口動態調査では無住地,第2次大戦後引揚者の入植地となり,同40年には38世帯となった。佐井・川内両町村に集落がまたがるため,境界決定の折衝がしばしばもたれた。同55年川内ダム建設により全戸川内町に移転した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7250981 |





