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沢田村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。五戸通に属す。沢田氏系図に「(盛岡藩主)利直公,慶長十六年十月十二日付八百石,其実七百九十七石八斗九升五合也ヲ賜フ,御黒印アリ」と見えるように,江戸初期は沢田氏の知行地であった。なお,その後沢田氏の知行地は失われている。村高は,「正保郷村帳」352石余(田220石余・畑132石余),「貞享高辻帳」440石余,「邦内郷村志」678石余(うち給地656石余),「天保郷帳」534石余,「天保8年御蔵給所書上帳」678石余(御蔵高158石余・給所高520石余),「安政高辻帳」440石余,「旧高旧領」では斗南【となみ】藩領分408石余・七戸藩領749石余と分記され計1,157石余。当村は地勢に恵まれ,記録としては残されていないが,生内川を利用して早くから開拓されている。給人による新田開発については,目時氏系図に「(目時八兵衛)寛文十二年願ニ依テ,沢田村ニ与力新田八十七石七斗九升ヲ賜フテ,五戸御与力トナル,後五戸六戸通御鳥討ヲ勤ム」と見える。寛延2年には,御蔵入79石余・新御蔵入67石余のほか,給地として奥台之進61石余・沖孫太夫85石余・牧田源五郎71石余・布施渡100石余・伊藤所左衛門92石余・目時兵衛87石余などとなっている(下田町,苫米地家文書)。天明3年当村に知行地を持つ給人は,目時八兵衛87石余・目時長蔵10石余・目時兵七5石余・目時軍助5石余・目時伊平太5石余・目時戌松3石余・江渡文右衛門38石余・田丸六兵衛21石余・気田甚左衛門15石余・櫛引伊兵衛15石余・米田善左衛門6石余などである(十和田市相坂,苫米地家文書)。また,嘉永3年に三日市川原の渋民が五戸御給人藤田源内らによって開田されている(十和田村史)。集落は奥入瀬川南岸の起伏の小さい平地に散在しており,「邦内郷村志」によれば,家数195,うち本村を除く集落別内訳は田屋14・下荒屋(下洗)33・三日市36・二家13・館12・足野沢(芦名沢)3・深堀4・水尻20・太田12,馬数457,寺院には五戸高雲寺末沢田山東光寺がある。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の中,家数144,集落別内訳は本村26・下洗28・太田24・二ツ屋11・田屋10・三日市18・芦名沢4・深堀2・館5・水尻16。斗代は上田1石1斗~下々田5斗で5等級,上稗田7斗~下々稗田4斗で6等級,上畑8斗~下々畑2斗の2等級であった(農民の生活史)。元文3年諸士知行所出物諸品並境書上によって村況を見ると,「沢田村,金目定大豆加所務仕候,おもない川と申小川流申候,沢田村中用水仕候,麻作太布仕出候得共,百姓着用計にて商売には不仕候」とある。三日市にある白山神社は元禄6年の勧請で大山比咩命を祀る。また,館にある八幡宮は元禄7年の勧請で応神天皇を祀る。中央部にある曹洞宗東光寺は寛文4年僧逸暁の開山(上北郡村誌)。明治2年当村は七戸藩・斗南藩に分割統治される。この時の領域境は不明。のち同4年それぞれ七戸県,斗南県となり,ともに弘前県を経て,青森県に所属。同11年上北郡に属す。明治初年の戸数191,村況は「平地に住し奥入瀬川に近く,水田は少けれとも,土地肥饒にして曠濶なり,工商相交り村勢他区に冠たり,近時稍養蚕の利を興し益富昌の彊となれり」と見える(国誌)。明治7年沢田小学が寺院を借用して開校。同11年頃の村の幅員は東西1里18町・南北18町,税地は田107町余・畑554町余・宅地29町余・林17町余・秣場36町余・原野58町余など計804町余,戸数222・人口1,428(男771・女657),牛31・馬793,神社2・寺院1,学校1(生徒男104・女4で計108),物産は米553石余・糯44石余・麦120石余・大豆642石余・稗60石余・麻422貫目(上北郡村誌)。同16年法量・奥瀬・沢田3か村で上北郡第14組を編成,翌17年沢田村外二ケ村戸長役場に編入され,戸長役場が当村に置かれた。同22年法奥沢村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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