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下田村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。五戸通に属す。村高は,「正保郷村帳」140石余(田71石余・畑68石余),「貞享高辻帳」175石余,元文4年の指上申手形之事(下田町誌)では下田権兵衛領下田村と見え396石余,寛延2年の木崎御野馬取村々御蔵御給所高付留帳(同前)でも396石余,「邦内郷村志」398石余(うち給地386石余),「天保郷帳」302石余,「天保8年御蔵給所高書上帳」398石余(御蔵高2石余・給所高386石余・御免地高9石余),「安政高辻帳」242石余,「旧高旧領」1,616石余。江戸期を通じて当村の村高の大部分は下田家への給所高であった。天保10年の諸士・御給人等地方給所村付書上によれば,下田将監の給所高800石のうち386石余が当村にあてられている。「雑書」の正保3年8月23日の条に,「於六戸下田ニ黒鶴二羽,大坂勘兵衛討上ル」とある。また,同書承応3年の条に,「六戸之内,下田村烏留鮭御運上金五匁,同下主肥場鮭留四匁,下田之内,秋藤之鰯船御運上金弐匁五分,何も下田村竺物日向ニ被遣,手形三通工藤茂右衛門渡」と見え,当時奥入瀬川の鮭が重要な産物であったことがわかる。「邦内郷村志」によれば,家数210,うち本村を除く集落別内訳は洗平14・新関(新敷)11・赤田4・阿光坊10・三本木22・木苗内(木内内)22・染屋4・間木1・木崎19・耳取7・秋藤(秋堂)17・土樋2・土用屋敷2・前宗瀬(前蒼前)3・木之下12・鶉久保8・古間木3・駒ケ沢2・七百3,馬数580,寺院には七戸瑞竜寺末正福寺が見えている。「本枝村付並位付」によれば,村の位付は下の上,家数156,集落別内訳は本村29・洗平11・新敷5・赤田2・安光坊6・三本木19・木苗々21・染屋3・間木13・木崎12・耳取5・秋藤9・前惣前1・鶉久保5・木ノ下10・古間木3・七百2。江戸後期には給人である下田家が新田開発を推し進めている。同家は文政7年に御取分新田を願い出ており,この時取りかかった下田谷地の新田野竿高は387石余であった。しかし,同7年新田開発のために鹿角【かづの】(現秋田県)から金掘師などを呼びよせ,相坂川舟場尻から用水を引こうと試みたが成功せず,また,天保飢饉の影響もあり,新田の開拓は難渋をきわめた。開発を進めるために,木崎村向川除普請割付控帳によれば,安政5年に当村周辺で奥入瀬川の川普請が行われているし(苫米地家文書),藩も嘉永3年には盛岡の平野八十八,元治2年には五戸の三浦伊八などにそれぞれ当村付近における新田開発を許可している。慶応元年の新田検地による改高は337石余で,半分の168石余は御蔵入となり,残り168石余のうち80石は開発協力者の赤石周八に,50石は鳥谷部門之助に,38石余が下田将監秀実の給地高に加えられている。この頃には杉の植立なども自由に願い出が許されるようになり,二川目御林の山守源之丞が杉300本の御忠信植立願を文久3年に当村肝入や老名を通じ提出している。神社は,地内木ノ下の西端に文明9年木ノ下の農民松林喜蔵が勧請したといわれる気比神社がある。同社は江戸期に木崎野馬護神・木下蒼前堂・馬頭観音堂などと呼ばれ,藩営の木崎野牧の馬護神として祀られ,馬を飼う者は遠くからでも参詣したという(国誌)。現在でも旧暦6月1日と15日に例大祭が行われ,昔ながらの絵馬を売る露店が軒を連ね大勢の人でにぎわう。このほかに,本村西部(字館越)に神明宮(皇太神宮)がある。寺院は,地内南下田に寛永15年下田将監直徳の開基で,七戸瑞竜寺4世明守の開山という曹洞宗青峨山聖福寺がある(国誌)。明治2年七戸藩領。同4年七戸県,弘前県を経て,青森県に所属。同11年上北郡に属す。当地域は幕末に開拓が進んだところが多く,明治2年に成立する七戸藩でも大参事新渡戸伝の方針によって新田開墾が勧められた。当村においても,家禄を失って帰農した元士族をはじめ,比較的豊かな農民たちが開墾を願い出て,新田野竿高を認められ開拓に励んだ。同藩では開拓御役所・野竿改開拓所を設け,明治4年5月には「七戸反別改印」を押して藩の御蔵入地であることを認める証書を交付している。このとき当村は三分され,南下田村・中下田村・北下田村の3か村として扱われている。なお,明治4年9月に青森県の管轄下となるまでには再び下田村1村となったと思われる。明治初年の戸数236,うち支村三本木22・洗平16・新敷9・阿光坊8・木内々37・間木20・染屋4・木崎17・木下17・古間木5・耳取7・秋堂17・中野平6・槻沢2・鶉久保11・前蒼前3,村況は「南は山に近く,奥入瀬川区中を流れ,北に大沼あり,土地曠闊にして草莽多く,支村十六其中に碁布し小径縦横交互し行人地道を暗せされは甚難渋とする処なり」という(国誌)。また,当村を東西に流れる奥入瀬川には西の犬落瀬【いぬおとせ】村側と東の百石【ももいし】村側の2か所に渡場があった(同前)。明治9年5月改正の青森県「学区割」によれば,洗平・新敷・阿光坊を含む下田村(戸数99・人口623)を1学区,下田村支村木内々・間木・染屋・木崎・耳取・秋堂(あわせて戸数109・人口696)を1学区,同じく支村木下・前蒼前・鶉久保・古間木(あわせて戸数35・人口247)を1学区として各1校の小学校を設置する計画であったことがわかる。のち下田学区と木内々学区をあわせて,同11年2月下田本村の聖福寺を仮校舎として第16中学区日新小学が開校,同12年の生徒数男36・女2,教員1。のち下田小学と改称し,木内々に移転,同14年下田本村に南分校,支村木ノ下に北分校を設置する。さらにのち,それぞれ下田小学が木内々小学校,南分校が下田小学校,北分校が木ノ下小学校となる(県教育史)。明治11年頃の村の幅員は東西1里11町・南北2里,税地は田250町7反余,畑477町2反余・宅地37町7反余・山林8反余・林35町9反余・秣場201町2反余・原野113町5反余・萱野30町9反余など計1,149町5反余,戸数246・人口1,514(男789・女725),牛71・馬859,漁船23,溜池17か所,神社2・寺院1,学校1・生徒数11(男のみ),物産は米・糯・粟・稗・大豆・蕎麦・大麦・小麦・鮭・牛・馬(上北郡村誌)。明治11年当村に戸長役場が置かれた。同12年の「共武政表」によれば,戸数214・人口1,364(男715・女649),牛60・馬611,寺院1,学校1,物産は米・粟・大豆・小豆・麦・稗・鮭。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7251152