志利屋村(近世)

江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。田名部【たなぶ】通に属す。村高は,「正保郷村帳」15石余(田4石余・畑11石余),「貞享高辻帳」19石余,「邦内郷村志」47石余(うち畑31石余),「天保郷帳」62石余,「安政高辻帳」50石余,「旧高旧領」47石余。「仮名付帳」では,枝村に岩屋村が見える。「邦内郷村志」では,家数38,人数187,馬24,牛97,漁船5,産物は昆布・串海鼠。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の下,家数27,遠見番所が岡ノ上にある。現在の集落と尻屋灯台との中間に浜尻屋と呼ばれる集落が300年ほど前にあったと伝えられる。また現在の住民の先祖は北陸方面から,漁に来てしだいに住みついたといわれている。家数は享保6年25,享和2年27,文政12年27(東通村誌)。尻屋の人々を「長柄の鎌」の子孫と呼ぶのは,鎌を携え潜水して昆布の採取をするので付会されたものである。享和2年異国船を見張るの記事が見られ,また伊能忠敬の「測量日記」に当地訪問のことが記されている。神社は宝永5年再興と伝えられる八幡宮,寺院は享保2年に他界した僧侶が鎌倉の寺から持参した観音仏を祀った大光庵がある(県尻屋経済制度一般)。地内には年間を通じて22回の祭りが伝わるが,民俗芸能の能舞が盛んであり,またオシラ神が各家に祀られている。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。明治初年の戸数29,村況は「土地磽确にして且田圃少く漁を専とし北海道に出傭して口を糊す」とある(国誌)。尻屋埼灯台は,イギリス人技師バッジーの設計監督のもとに明治6年起工,同9年竣工。同10年大光庵を校舎に尻屋小学が開校,同15年の生徒数は男子10(県学事年報)。明治11年下北郡に属す。同12年の「共武政表」によれば,戸数28・人口177(男85・女92),牛20,馬63,学校1,物産は干鮑・昆布・若和布・布海苔。同22年東通村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7251234 |





