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田子村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。盛岡藩領。三戸通に属す。村高は,「正保郷村帳」903石余(田568石余・畑334石余),「貞享高辻帳」1,128石余,安永6年 「三戸御代官所惣御村三十三ケ村小高覚」1,735石余(うち御蔵高114石余),「邦内郷村志」1,737石余(うち給地1,623石),「天保郷帳」1,991石余,「天保8年御蔵給所書上帳」1,750石余(御蔵高161石余・御免地高16石余・給所高1,572石余),安政3年「三戸通神社仏閣地名書上帳」1,751石余,「安政高辻帳」1,597石余,「旧高旧領」1,816石余。なお「仮名付帳」には枝村として相米村・白板村が記される。「邦内郷村志」では家数418,集落別内訳は田子村38・下田子35・舞手12・向山9・似市4・蟹沢2・矢田路8・獅子内5・水神3・堀合3・細野2・同処8・鎌久保3・野黒沢5・徳楽久保2・寺久保1・牛ケ沢2・野々上16・井煙23・川向17・堅田7・大王16・川代27・滝又2・上野27・田之沢2・鳴滝7・木和田久保1・山王2・赤坂3・大明神3・稲葉2・合之久保6・丹内2・長坂8・干草場14・二次3・舞前4・清水頭23・ヒツフジ3・外平6・東平3・椛山4,馬747,寺院・仏閣は曹洞宗花蔵山耕田寺,十一面観音・蟹沢観音。蟹沢観音を,釜淵観音堂とする説もあり,釜淵観音は糠部三十三観音の第27番札所とされる(奥州南部糠部順礼次第全)。境内には享保7年建立の奇峰学秀の千体仏造立記念碑がある。「本枝村付並位付」によれば,位付は上の下,家数342,集落別内訳は本村39・七日市9・衣替23・向へ山10・舞手16・下田子25・野々上9・釜淵2・上野21・長坂5・丹内23・蟹沢4・弥太郎8・池振25・川向へ24・大王13・川代15・清水頭32・天神堂5・似田6・東平2・椛山5・干草場15・舞々6。当村は延宝2年の総検地に先だち,承応3年に検地を願い出たという(雑書)。鹿角街道は天正17年南部信直が整備したと伝えるが,元和5年南部利直黒印伝馬証文によれば三戸・田子・関・大湯・松山に伝馬制が確立していた。当村の往還筋には伝馬所が設置され,その周辺に形成された町並みは田子町と呼ばれ,三戸町に準じた扱いを受けた。町には町役人として検断が置かれ,大肝入の支配を受けず直接三戸代官所の支配を受けた。宝暦11年の「御巡見御宿割図」に田子町と見え,往還に沿って東西に伸びる町並みの両端は柵木を設けた出入口となっている。その東端には夫伝馬を待機させておいたと考えられる問屋のような家屋,その向かいに馬繋ぎ,荷を積みかえるための空地が見える。また南西端の柵際の造酒屋前には制札場が,その近隣には藩主や巡見使の陣屋となった御仮屋,見世(店),検断八兵衛家など19軒が記されている。弘化3年八戸藩士接待治卿が描いた「信直公御在城古跡之図」では町全体が柵木と植樹で囲まれ,制札場・酒屋・御役人宿・伝馬所が記され,町域も拡大している。安政3年の「三戸通神社仏閣地名書上帳」によれば,田子村の家数43・人数136,田子町の家数23・人数76(男50・女26),町並みの長さは1町半程,禅宗報恩寺末牛尾山耕田寺は往還から1町程はいったところにあり,御免地8斗余とあり,田子村と田子町が区別して記載されている。制札場には天和2年のキリシタン宗門,貞享5年の捨馬,元禄12年の人売買,元禄16年の駄賃の札建直しの4枚があった。宿駅間の駄賃は寛永元年には本馬1里36文の定めで,元禄16年には1駄の駄賃が三戸より田子まで84文,田子より関まで90文。文政13年には三戸~田子の2里28町は本馬105文・軽尻67文・人足51文,田子~関の3里4町は本馬120文・軽尻72文・人足58文。慶応4年の「駄賃帳」によれば,軽尻が三戸~田子間436文,田子~関間466文と一躍6倍に騰貴している。また,同年の「黒川領夫伝馬立払帳」によれば,大湯(秋田県)からの御用銅は田子で引継ぎ,浅水(五戸町)まで夫伝馬で搬送され,三戸からは関行きの塩伝馬と人夫がしきりに往来した。田子町では宿老の互選した3名の候補者の上席が代官によって検断を命じられ,伝馬宿の仕事に当たった。田子村は田子通16か村を支配する大肝入下参郷兵衛の支配下にあり,三戸町居住の田子通小走りを介して老名たちが村の運営をはかっていた。慶応2年の大火で町並みの過半が焼失し,その跡に復興した家はことごとく柾葺屋根に一新された。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。明治初年の家数は本村82・下田子20・舞手17・向山8・新井田10・衣更32・七日市19・上野25・丹内12・長坂16・ニタ次22・下平6・干草場13・野々上15・池振89・野畔沢11・川向18・堅田8・大王9・川代19・清水頭26・外平13・東平4・椛山不明・矢太郎13・水上3・蟹沢3,地内に鹿角街道が走り店舗が並び,郵便扱所・陸運会社があり,毎月10・20・30日に市が立つ。また当村は畑勝ちで近傍諸村は地味が肥膏で米穀の集散地となるが,山間の枝村は薄地が多く冷水のため稗を栽培し,川代・大王などでは早霜の害を被る。しかし近年は養蚕が盛んになり,好醸の田子酒を生産するという(国誌)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数・人口は本村89・438(男234・女204),下田子25・137(男77・女60),向山19・102(男51・女51),衣更52・165(男96・女69),七日市19・113(男57・女56),上野23・110(男64・女46),川代19・104(男52・女52),清水頭26・130(男70・女60),寺院は本村1,学校は本村1・清水頭1,水車は本村2・下田子1・衣更1・七日市1・川代1・清水頭1,牛・馬は本村28・138,下田子1・57,向山0・25,衣更0・56,七日市1・27,上野0・24,川代1・47,清水頭1・58,物産はともに米・麦・雑穀・薪・木材。明治2年黒羽藩大関美作守支配となって大肝入制は廃され,田子村には田子通庄屋伝次郎,田子町には田子町検断嘉平治が任じられたが,同3年正月不要になった萱野に杉を植え立て非常備木とすることを三戸県に申請している。同年斗南藩支配となった時から田子町といういわば「特別行政区」は廃されて田子村に吸収されたと考えられる。明治9年の改正青森県学区割では田子村・相米村がそれぞれ本村として残り,種子村・日沢村は田子村の支村となり,白板村は原村の一部となり村名は全く消滅した。同13年田子村ほか3か村の戸長役場が創設され,同18年旧田子通を田子村外八ケ村の戸長役場として統合した。明治7年学制により田子小学,同11年には清水頭小学を開設,同12年の教員数・生徒数は,田子小学が4・91,清水頭小学が1・22,すべて性別は男(明治12年公学校表)。地内の下田子に郷社真清田神社,田子に村社八坂神社,清水頭に姥ケ岳神社がある。姥ケ岳神社は奇峯学秀作の十一面観音像・弥勒菩薩像を安置する。真清田神社はもと清水寺といい,十一面観音を祀り,坂上田村麻呂草創伝説で名高い。田子小学は明治16年衣更分校・相米分校を設置,同20年田子尋常小学校と改称し,2分校は独立する(県教育史)。明治22年田子村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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