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鶴田村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。村高は,「貞享郷村帳」2,002石余,「貞享4年検地水帳」1,566石余(田1,459石余・畑屋敷107石余),「寛保高辻帳」2,002石余,「天保郷帳」1,502石余,「旧高旧領」1,713石余。八幡宮の社伝には,同社が天正2年に当地へ移転し,慶長15年に津軽為信の参拝があったと見えることから,当村は中世以来の古村とも考えられるが,「平山日記」には慶安4年の項に「鶴田村始」と記されており,新田の開発は慶安年間頃より始められたとみられる。天和3年の御代官所村家人数之帳(八木橋文庫蔵)には三千石御代官所支配の新田村として鶴田村地子新田・下鶴田村・鶴田地子新田が記載されているが,いずれものちに当村の地内に吸収されたと考えられる。東は山道村,西は岩木川を隔てて木筒村,南は菖蒲川村,北は亀田村・強巻【こわまき】村に接する。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「大いつみ・前田・小いつみ・わたり舟・おき津・南田・壱本木・早瀬」があり,反別は田162町余・畑27町余・屋敷2町余,田は上田から下々田まで,畑は上畑から下々畑まで設定され,屋敷地は郷蔵屋敷1畝余を含む。ほかに田畑への開発可能地1,000町余,鷹待場としての留林5町余,船上場2反余があり,漆木は2,575本。元禄3年には広須組に属し,村位は中(平山日記)。正徳5年代官所が設置され,宝暦4年には広田組,同7年には赤田組に属した(鶴田町誌)。元禄16年には6月1日から6日までの大雨で洪水となり,死んだ牛馬が多く,川と化した田圃の上を船で漕ぎ渡るほどの被害が出たという(平山日記)。天明3年の大飢饉以来1,004石余が荒地となり,天保5年には52石余が岩木川決壊による砂入りの被害を受けたという(鶴田郷士史)。また天保年間には枝川足水【たしみず】堰(現鶴田堰)の水下に編成されている(津軽平野開拓史)。岩木川には対岸の木筒村に至る鶴田渡が設置されていた(国誌)。神社は八幡宮があり,祭神は誉田別尊,「安政2年神社書上帳」によれば,創立は大同2年坂上田村麻呂によると伝えるが,社伝では天正2年に岩木川の決壊のため川岸より現地へ移転したとする。同社は寛永年間に再建され,安永3年赤田組の祈願所となり,板屋野木村宝量宮(現板柳町海童神社)と1年交替で神楽を奏したという(鶴田町誌)。寺院は浄土宗蓮池山称光寺,浄土真宗鶴遊山教願寺があり,称光寺は本尊が阿弥陀如来でもと法王寺(現西津軽郡鰺ケ沢【あじがさわ】町)の末寺,宝永3年に没した古岸の創立とされ(国誌),明治5年寺号を称する。教願寺の本尊は阿弥陀如来,もと弘前真教寺末で,貞享元年玄再が開基となって創立したという(浄土真宗一派縁起)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年北津軽郡に所属。「国誌」によれば,明治初年の戸数189,工商が雑居し小店があるという。同9年亀田村を合併,合併後,村内では旧鶴田村を甲鶴田,旧亀田村を乙鶴田と区別して称したという。同年鶴田小学を開設,同12年の教員数男4,生徒数男124(明治12年公学校表)。同14年大巻村の大強小学を合併し,分校を設置(県教育史)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数315・人口1,781(男903・女878),馬110,物産は米・大豆・小豆・麦・粟・蕎麦。同13年には馬船1艘・小舟1艘があった(県治一覧表)。同17年から22年頃までに,村内で3人がリンゴの栽培を始めたという(りんご百年史)。同22年鶴田村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7251594