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斗賀村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。三戸郡のうち。はじめ盛岡藩領,寛文5年からは八戸藩領。名久井通に属す。村高は,「正保郷村帳」187石余(田108石余・畑78石余),「貞享高辻帳」187石余,「元禄10年高帳」357石余(田165石余・畑202石余),享保10年66石余,延享3年280石余,うち上斗賀村63石余・斗賀村217石余(概説八戸の歴史),安永5年95石余(名久井通村高目録),「天保郷帳」371石余,「旧高旧領」349石余。北方山間平地に枝村田ノ沢村がある。八戸藩の御蔵地は一部で,大部分は給地。検地は,延宝2年・元禄7年・享保11年・明和5年・文政11年に行われている(八戸藩日記)。年貢銀は享保10年村高66石余に対し75匁余,安永5年95石余に対し113匁余(名久井通村高目録)。田は,枝村の田ノ沢をはじめとし,諸丘陵間の沢に形成され,洪水の被害のおそれのある馬淵川流域および集落前面の低地にはあまり形成されなかったとみられる。畑作物は粟・稗・大豆など。凶作時には田に稗を植えた。特産物としては矢竹・藍などがある。矢竹は延宝2年・同7年の両度盛岡藩へ切り出し(八戸藩日記),享保9年には八戸藩の命令で,全部切りあげられている(同前)。藍については,明和6年斗賀村紺屋重之進が従来藍桶21本を製造してきたが6本の減量を願い出ていること(八戸藩勘定所日記),慶応3年藩は藍の他領出しを禁止していることなどから,当地の藍栽培の盛況ぶりが伺える。馬産も盛んだった。延享3年の上斗賀村の家数20・人数85,馬数43,斗賀村の家数65・人数183,馬数73(概説八戸の歴史)。斗賀神社の前身である斗賀霊現堂は冷現・令現・良現・涼現とも書き,斗賀観音ともいったが,「霊現堂縁起」では,大同2年坂上田村麻呂の創建,藤原有家を十一面観音として祀るとしているが,一説では正平年間の建立で,はじめ天台宗,のち真言宗に改宗している(国誌)。正平21年在銘の鰐口や鐘銘・仮面・毘沙門天像などがある。藩主の信仰も篤く,承応2年4月盛岡藩は,他の諸寺院とともに斗賀観音にも初尾として米20俵を寄進して祈祷させている(雑書)。延宝7年八戸藩は,冷現堂の普請にあたり,「ゆきたれ」20枚,「わらなわ」1,000尋,「くくなわ」1,000尋を遣わし,同年4月には斗賀令現堂の普請奉行として佐藤五郎右衛門が命じられ,同年11月令現堂遷宮につき川口与十郎が藩主の代参を行っている(八戸藩日記),享保5年5月には豊山寺・大工奉行奥寺嘉右衛門・御歩目付飯岡弥内・鍛治権兵が遣わされ,藩主寄贈の鐘堂供養を行っている(同前)。享保9年には姫君の眼病立願として鰐口その他が奉納され(御用人所日記),同15年にも亀之助様疱疹全快祈願をしている(八戸藩日記)。幕府巡見使の廻国に当たっては,享保5年・天明8年に巡見使無事安全通行の祈願を命じられている(同前)。祭神は,「霊現堂縁起」では讒言によって流刑に処せられて死んだとする二条関白太政大臣藤原有家をあて,「八戸郷土誌」では涼現堂は北斗妙見菩薩の祭壇で霊符験示の故に霊験堂と呼ばれるのであるとしている。寛保4年の「諸寺院寺号山号帳」によれば,高10石を給されている。寛保3年の「奥州南部糠部順礼次第全」には涼現堂十一面観音とあり,糠部三十三観音の第16番札所となっている。神社の北方高地山林中に,十和田湖の主となった南祖坊が生まれた時の産湯に使用したとか,南祖坊が願をかけたとか伝えられている小池があり,十和田山として尊信されている。斗賀稲荷も古い時代からあったとみられる。享保3年斗賀稲荷の遷宮には,藩から名代が派遣され(同前),寛保2年には大明神の神位を受けている(八戸藩史料)。享保5年・天明8年には霊現堂とともに,巡見使無事安全通行の祈願がなされている(同前)。曹洞宗賀慶山東円寺は寛文10年浅水村宝福寺2世吟庵の草創開山(国誌)。宝暦飢饉の際の無縁仏墓地がある。凶作・飢饉の常襲地帯であり,貞享4年・寛延3年・天明3年の飢饉時には,盛岡藩領の山野でのクズ・ワラビなどの山菜の掘取りを願い出ている(八戸藩日記)。元禄9年2月27日の昼,当村豊山寺知行所より出火し,御蔵人11軒,豊山寺知行3軒,中里弥次右衛門給地1軒の計15軒が焼失した(同前)。宝暦13年には,大雨による山崩れがあり,山押家19軒・山崩24か所に及んだ(同前)。名主は隣村の剣吉村名主が兼任し,藩士の給所にはそれぞれ小名主が置かれていた(出町家文書)。元文5年,戸来惣右衛門拝知伝吉・豊山寺拝知与五郎・中里弥祖右衛門拝知清五郎・甚助・鴨助・馬場の右衛門・名主宇八郎・忠四郎・半七・清次郎・弥七が藩主から鶴の黒焼を下賜された(八戸藩日記)。天明5年清兵衛,伝三郎,田ノ沢の弥太郎が籾・雑穀を藩へ貸し上げたことにより褒美を下賜された(八戸藩勘定所日記)。同7年甚右衛門・与右衛門・与惣治は御免地小高帳を下賜された(同前)。欠落は慶応3年の1件のみ(同前)。商人は,紺屋重之進と万延元年の椛屋宇八(同前)。弘化3年より明治7年まで,東円寺に寺子屋が設けられ,読書・習字などの指導が行われていた。師匠は東円寺住職得髄和尚で,筆子は男35(県教育史)。明治4年八戸県,弘前県を経て,青森県に所属。明治初年の戸数は本村100・田ノ沢2,地味は中の中(国誌)。明治12年の「共武政表」によれば,戸数108・人口713(男380・女333),寺院1,学校1,牛5,馬148,物産は米・麦・雑穀・蔬菜・麻糸。明治9年定平寺の下に斗賀小学設立,教員は当初は東円寺住職杉原得髄。初代教員は松原忠意(八戸市八幡出身),2代は佐々木第八(下斗賀出身)。校舎は5間に8間(剣吉小学校百年誌)。明治14年明治天皇の第2次東北巡行では8月24日午後当地を通過した。同22年北川村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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