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野内村(近代)


 明治22年~昭和37年の東津軽郡の自治体名。野内・久栗坂・浅虫の3か村が合併して成立。旧村名を継承した3大字を編成。役場を村内中間の久栗坂字浜田に置く。明治24年の戸数451・人口3,254,厩67,学校3,船164(徴発物件一覧)。明治9年開校の久栗坂小学,同10年開校の野内小学,同11年開校の浅虫小学がある。明治24年に日本鉄道(現国鉄東北本線)が開通し,同年に浅虫駅(浅虫字蛍谷),同26年に野内駅(野内字浦島)が開設された。平内地区の輸送基地化,浅虫温泉の観光地化の原動力となる。同38年にはイギリス系の石油販売会社サミュエル商会の石油タンク4基(7,000石貯蔵)が工費14万円をかけて野内字浦島に建設され,全国的にも珍しい石油の貯蔵・輸送基地として知られたほか,地元の製缶業など軽工業振興にも一役担った。村域は西北を青森湾に面し,土地の起伏が多くておおむね急峻,水田は野内・根井・宇多の3河川の流域にあるだけで,畑作・漁業・牧畜などで収入を補った。おもな産物は,米・大豆・小豆・ジャガイモ・リンゴ・木炭・イワシ・魚油・焼干・イワシ肥料など。昭和2年には米2,300石を主とする農産物が14万余円代,牧畜8,000余円代,水産物3万7,000円代,砂利・石材4万3,000円代,それに石油貯送関係の製缶16万円代も生産した(県総覧)。大正13年東岳村との間で境界変更実施。同年には東北帝国大学の臨海実験所が浅虫字坂本に開設され,付属水族館は温泉郷の名物となった。浅虫温泉は明治末期から保養地・行楽地に整備されてにぎわい,昭和33年までは歓楽街としても繁盛したが,その後は健全な観光地に戻った。昭和28年には夏泊半島とともに県立自然公園に指定された。大正元年の戸数782・人口4,598,以後の世帯数・人口は,同9年903・4,559(うち職業別人口は農業1,114,水産業1,406,鉱業135,工業546,商業590,交通業300,公務・自由業207,その他の有業105・家事使用人3・無職業153),昭和元年887・5,843,同10年1,020・6,797,同22年1,795・8,849,同30年1,735・9,378,同36年1,850・8,710。同37年青森市の一部となり,村制時の3大字は同市の大字に継承。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252021