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弘前市(近代)


 明治22年~現在の自治体名。全国31市の1つとして,旧弘前城下のうち紙漉町を除く88か町によって成立。市役所は元寺町に置かれた。市制施行時の戸数6,240・人口3万1,375。明治24年の戸数4,439・人口3万1,431,厩4,学校7,水車3(徴発物件一覧)。明治4年の廃藩置県により弘前県として一時県庁が置かれたが,同年青森県となり,県庁は青森町に移転した。旧士族の没落離散,特色ある地場産業もなく,当村は津軽地方の農村の中心都市というだけで市勢は衰勢に向かった。市の発展の契機となったのは明治27年奥羽北線の青森~弘前間の鉄道開通と,同30年の陸軍第八師団の設置である。弘前駅は市の東方和徳村和徳に設置されたが,経済・交通の面で多大の利益をもたらした。第八師団は司令部・第4旅団司令部・歩兵第31連隊・騎兵第8連隊・工兵第8大隊(同42年盛岡へ移駐)・野砲兵第8大隊・輜重兵第8大隊・予備病院(のち衛戌病院)その他の施設が,南郊の清水村・千年村などに設置され,旧城址に兵器支廠が置かれた。これによって市の経済は活況を帯び,通信機関も整備されたのみならず,市民の生活文化に与えた有形無形の影響も大きく,弘前市は「軍都」と呼ばれた。市街地は東南へ発展し,中心商店街もかつての本町から南東の土手町へ移った。第八師団は日露戦争に参加し,戦後の企業熱は高まり,明治44年9月現在の市内の会社数(株式・合資・合名会社)は17であったが,資本金は少なく小規模な販売会社や貸金業が多かった。これを支える金融機関は,第五十九銀行(明治30年第五十九国立銀行から移行)のほかに7銀行があった。弘前商業会議所は同41年の設立。教育の面では,藩校の伝統を継いで明治5年に開校した東奥義塾のほかに,明治末期で市立の尋常小学校6(1校は師団設置による人口増加で増設),高等小学校2があり,中等教育機関として県立弘前中学校(明治22年に青森から移転)・高等女学校・工業学校各1,私立の女学校1があった。また公・私立の幼稚園も5を数え,市立図書館もつくられた。旧城址は明治27年に市に貸与となり,翌28年から陸軍施設関係を除いて公園として市民に開放された。同45年の戸数6,522・人口3万7,692(男1万9,370・女1万8,322)。第1次大戦とその後の戦後不況は市の経済にも影響を与えた。士族の経営として始まったリンゴ栽培は,栽培技術の進歩と大正2年の凶作の影響もあって小農民経営に移行した。在来工業である織物業・醸造業も近代化され,大正年間の市および近郊の株式会社は31となった。教育の面では,大正2年に一時廃校となった東奥義塾が同11年に再興し,同12年私立弘前和洋裁縫女学校,同15年家政女学校が開校した。また市立の商業補習学校・女子実業補習学校も相次いで開校し,新しい市公会堂(それまで小学校校舎を利用)も大正12年に当市出身の実業家藤田謙一の寄付によって完成した。しかし市勢の発展に大きな影響を与えたのは,大正10年4月県下最初の高等教育機関として開校した官立弘前高等学校である。なお,大正6年5月18日市外富田からの出火によって市南部一帯と隣村豊田村の一部を合わせて533戸を焼く大火に見舞われ,昭和2年5月29日にも北横町から出火して市の東南部一帯438戸を焼いた。大正9年の世帯数6,068・人口3万2,767(うち職業別人口は,農業1,518,水産業8,鉱業180,工業9,948,商業9,691,交通業1,088,公務・自由業5,536,その他4,798)。同14年の世帯数6,492・人口3万6,293(男1万8,168・女1万8,125)。昭和3年4月陸軍施設・高校のある清水村富田の一部と紙漉町の全域が弘前市に編入。編入地域の世帯数764・人口4,147。これによって市の世帯数7,428・人口4万3,338(男2万1,746・女2万1,592)となった。さらに同11年弘前駅周辺の和徳村の一部(世帯数862・人口4,092)が当市に編入され,合計89町2大字を編成。昭和11年の世帯数9,345・人口5万1,454(男2万5,113・女2万6,341)となった。昭和3年4月18日富田町からの出火で市の南半610戸を全焼する大火に見舞われた。交通の面では,昭和2年に弘南鉄道の弘前~津軽尾上間が開通し,同25年には黒石まで延長。また,昭和5年設立の弘前乗合自動車を母体とする弘南バスが同16年に発足して,中・南津軽郡町村との結びつきを強めた。NHK弘前放送局は昭和13年の開局である。第2次大戦による戦時統制のもとに市の経済活動は停滞し,県内の銀行は「一県一行主義」に基づいて青森銀行に統合された。しかし大正13年設立の弘前無尽株式会社は事業を拡大して県唯一の無尽会社となり,戦後の昭和26年弘前相互銀行(同51年みちのく銀行)となった。昭和12年弘前城跡は国重要文化財に指定された。第2次大戦の戦災に遭わなかった弘前は,陸軍の解体によって大きな影響をうけたが,軍施設を学校用地に転用して「軍都」から「学都」に転換した。旧制弘前高校・青森師範学校・青年師範学校・弘前医科大学などを統合して医学部・文理学部・教育学部から成る新制弘前大学が昭和24年に発足した。現在は人文学部・理学部・農学部・教養部のほか医療技術短期大学部なども併設。このほかに同25年東北女子短期大学・弘前学院短期大学,同44年東北女子大学,同46年弘前学院大学が開学した。現在は県立高校5・私立高校4,その他を有する学園都市となっている。この間,当市は昭和30年に中津軽郡の11か村,和徳村(世帯数880・人口5,678)・豊田村(1,052・6,885)・堀越村(1,055・6,044)・千年村(1,255・8,087)・清水村(993・6,071)・東目屋村(669・4,483)・藤代村(1,254・7,531)・船沢村(777・5,256)・高杉村(840・5,390)・裾野村(1,111・7,092)・新和【にいな】村(1,077・7,727)を合併した。このうち東目屋地区は,岩木町・相馬村・西目屋村に囲まれた飛地となった。この合併によって,昭和20年世帯数1万1,766・人口5万7,570(男2万5,779・女3万1,791)であったのが,合併時2万5,766・13万8,118となった。その後も同31年に岩木町の一部(河東地区103戸・636人),同32年に石川町(1,436戸・8,914人)を合併して市域を拡大したが,同39年旧石川町域において分市運動が起こり一部が大鰐町に編入され,当市は合計101町76大字を編成。同40年鶴田町との間,同41年西目屋村との間,同42年尾上町・平賀町との間,同43年岩木町,同44年平賀町との間で境界変更を実施し,同年平賀町の一部を当市に編入,同46年岩木町・平賀町との間,同50年西目屋村との間で境界変更を行い,同51年大鰐町・平賀町との間で境界変更を実施するとともに大鰐町・平賀町に当市の一部を編入,同52年大鰐町,同57年鰺ケ沢【あじがさわ】町の一部を当市に編入。産業別就業者数は,昭和40年第1次産業2万7,283・第2次産業9,815・第3次産業3万2,905,同55年第1次産業1万9,356・第2次産業1万4,554・第3次産業4万8,287。同57年の出稼労働者就労状況は,総数6,983人(うち夏型1,847・冬型5,136)で,出稼先は神奈川県がトップで1,298人,以下東京936人・埼玉533人・愛知487人と続く。昭和45年の農家数1万189戸(専業1,594・第1種兼業4,912・第2種兼業3,683)・農家人口5万3,123,同55年の農家数9,516戸(専業1,790・第1種兼業3,795・第2種兼業3,931)・農家人口4万5,888。世帯数・人口は,昭和35年3万2,321・15万2,132,同45年4万2,265・15万7,603,同50年4万7,496・16万4,911,同55年5万3,094・17万5,330。昭和31年以降町名地番が改正され同31年富田地区,同41年弘前駅前地区,同42年富田桔梗野地区・城西地区,同43年松原地区,同45・47年槌子地区,同48年片堀地区・大和沢【おおわさわ】地区・第1城東地区,同49年東目屋地区,同50年第3城東地区1工区・第2城西地区・小沢地区,同51年和田地区・第2城東地区,同52年取上地区・第3城東地区2工区,同53年田町地区・城南桔梗野地区,同54年清原地区,同56年大開地区,同57年小金崎地区,同58年弘前駅前南地区・撫牛子地区,同59年第1宮園地区で実施され,現在当市は359の大字・町を編成。また船水地区・北和徳地区に工業団地が造成されて企業誘致が行われ,国道7号バイパスが完成し,現在国道102号バイパスの建設が進められている。なお,市街地の都市計画街路建設も進行中である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252190