100辞書・辞典一括検索

JLogos

57

広瀬村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。津軽郡田舎庄のうち。弘前藩領。江戸前期には当村が大瀬辺地【おおせへじ】村と称し,村内の山派が広瀬村と称し,貞享年間頃にそれぞれ改称したという。ちなみに,この頃瀬辺地村は小瀬辺地村と称していたという(蓬田村史)。村高は,「正保高帳」では大瀬辺地村と見え55石余,「貞享郷村帳」427石余,「貞享4年検地水帳」224石余(田139石余・畑屋敷85石余),「寛保高辻帳」427石余,「天保郷帳」127石余(うち弘前本では川欠31石余),「旧高旧領」270石余。村内西部の山派(現在の字高根)では慶長15,6年頃から製鉄が行われ,製鉄に従事するものが南部地方などから多数移住してきて,一時期数百戸に及んだという。「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「坂本・山崎・高根・滝沢」があり,反別は田18町8反余・畑屋敷33町3反余,また,見取場(畑)8町3反余,開発可能地8町8反余,漆木953本,草山1か所・5町3反余,柳原2か所・9畝余,浜1か所・3町7反余,空地1町3反余,永荒田畑5反余あり,このほか八幡社(2社)の社地がある。元禄3年には後潟【うしろがた】組に属し,村位は下(平山日記)。西部の山間には藩の御用木山があり,ヒバ材などを伐採し,広瀬川河口に集めた。天明の大飢饉の時に山派の住民は秋田などへ逃散し,残った4,5軒のものも瀬辺地村に移住したという(蓬田村史)。伊能忠敬「測量日記」によれば,享和2年の広瀬の家数は25軒とある。文化6年御郡在開発田方調帳によれば,享和3年に1畝余の荒田が復興されている。安政6年の弘前藩浦町横内油川後潟四ケ組秣場炭焼元帳によれば,当村には秣場5か所,炭焼地1か所,萱仕立場1か所があった。神社は,字坂元に寛永元年の創建という八幡宮があり(元禄15年の堂社縁起修験道由緒),字高根(山派)にも八幡宮がある。両社はともにのち明治6年から同8年まで郷沢村の稲荷神社に合祀されている。寺院は字坂元に浄土宗楽宝寺があり,蟹田村専念寺の旧末寺で,寛文年間に専念寺の住職一蓮社良向上人が隠居寺として庵を建てたのが初まりという(蓬田村史)。文政年間に弘前藩士小畑弥九郎が寺子屋を開き,子弟に教育を施した。また,山派でも佐々木彦五郎・坂井茂作・山口某が寺子屋を開いた(同前)。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年東津軽郡に属す。明治初年の「国誌」によれば,当村の支村として山派・瀬辺地・板木沢が見え,戸数96(うち広瀬44・山派10・瀬辺地19・板木沢23),村況は「東は海,西は山に近く山麓に田畑あり,水田多し,土地菲薄作毛宜からす,依漁人多く,村に小店があり」という。なお,明治7年の県管内村名簿では当村の支村として山派村が見え,瀬辺地村・板木沢村はそれぞれ1村として見える。同10年頃の陸奥国津軽郡誌によれば,戸数61・人口408(男213・女195),馬81,船43(50石以上商船1・50石未満艀漁船42),社2,税地は田75町8反余・畑32町8反余・宅地5町6反余・山林2反余・原野6町8反余・秣場74秣6反余・萱野11町6反余で計207町7反余,物産は米・大豆・王余魚・鱈・海参・薪など。また,同書では当時の村民の生活状況について「全村ノ男女,漁業耕耘ヲ専ハラニシ,其余暇山ニ入リ採薪シ,少壮ノモノ或ハ北海道ニ航シテ出稼ヲナシ,以テ生トス」と記す。「明治12年公学校表」によれば,明治10年に広瀬小学が開校,生徒数33(男のみ)。また,同18年には山派に寺子屋式の教育機関ができ,のち同36年広瀬小学校の分教場となる。明治12年の「共武政表」によれば,戸数66・人口457(男237・女220),馬80,船3,学校1,物産は米・大豆・薪・炭。同22年蓬田村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252196