馬門村(近世)

江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。野辺地通に属す。村高は,「正保郷村帳」1石余(畑のみ),「貞享高辻帳」1石余,「邦内郷村帳」122石余(うち給地53石),「天保郷帳」122石余,「天保8年御蔵給所書上帳」155石余(御蔵高122石余・御免地高33石余),「安政高辻帳」98石余,「旧高旧領」122石余。慶安・明暦年間の頃には家数80,うち滝田10・近沢10をふくむが,滝田・近沢がのち無住となり,また藩領境で警備もあるため,年貢が免ぜられた(国誌)。このため江戸期・中期の村高が極端に少なくなっている。「邦内郷村志」によれば,家数76,馬数48,熊野堂・盛岡大泉寺末光明山遍照寺がある。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の中,家数48。当村は盛岡藩領と弘前藩領の境にあたり,境目番所が設置された。「郷村古実見聞記」の元禄12年御絵図書上には,御境道筋として馬門村から弘前藩領狩場沢への道が見える。番所には番人が2名ずつ毎日交代で勤務した(野辺地町郷土史資料)。正徳3年藩領境の堀差山をめぐり,盛岡藩と弘前藩との間に境界紛争があったが,翌4年幕府役人の検分裁定により堀差山は弘前藩領に決定した(県史2)。正徳年間の渡世状況は「馬門村,山働き,塩など焼き渡世仕候」という(飯田家文書)。また,野辺地湊の繁栄とともに,馬・牛による駄送稼に従事するものも多い。西部の山麓に馬門温泉がある。天明8年菅江真澄が野辺地を訪れ,馬門の湯に浴して,里人の歌・言葉に関心を示している(岩手の山々)。神社は,万治2年草創の熊野神社,伊邪那岐紙を祀る。寺院は,土豪横浜某の開基で僧智仙の開山,元和元年草創の浄土宗光明山遍照寺がある(国誌)。また,地内柴崎には古寺があったが,海蝕によって元文年間に野辺地に移り,海中寺と称したという(野辺地町郷土史資料)。明治元年9月22日野辺地戦争が起きる。小湊口を守備していた弘前藩兵180人が馬門村に火を放ち,野辺地へ夜襲を行ったが,盛岡・八戸藩兵の反撃を受け,弘前藩側は44人の死傷者を出し敗退した(野辺地戦争記聞)。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。同11年上北郡に属す。明治初年の家数64,村況は「土地砂礫多く極て菲悪にして,田少く畑多し,常には漁猟を専とし,或は北路に傭す」と見え,馬門温泉について「湯屋一軒,湯守の家一軒,又小屋二棟あり,浴客に備ふ湯槽二所にあり,眼病疾病に宜しとて浴するもの常に多し」とある(国誌)。明治10年馬門簡易小学校が遍照寺を仮校舎として開校,この時の生徒数28。同12年校舎が新築され,同20年馬門簡易小学校となる。同12年の「共武政表」によれば,戸数78・人口547(男286・女261),牛159,船6,学校1,物産は米・大豆・粟・そば・稗・大口魚・鮫・煎海鼠・材木・薪。同22年野辺地村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7252382 |





