百田村(近世)

江戸期~明治22年の村名。津軽郡平賀庄のうち。もとは津軽野(津賀野)村の枝村であったが,享保11年に分村した(村名改称并新村創立調)。弘前藩領。村高は,「貞享4年検地水帳」では津軽野村の枝村として村名が見え23石余(畑8石余,屋敷15石余),「天保郷帳」23石余,「旧高旧領」24石余。集落は,弘前城下から浪岡村・油川村を経て青森町へ至る羽州街道沿いに発達する。また平川を挟んで対岸の藤崎村との間に渡船場があった。「貞享4年検地水帳」によれば,小字は見えず,反余は畑1町6反余・屋敷1町8反余でこのうち畑は中畑のみであった。元禄3年には和徳組に属し,村位は上(平山日記)。江戸末期の御道書明細によれば,戸数46・人口356,駒26とある。村内に寺社はない。明治4年弘前県を経て,青森県に所属。同11年中津軽郡に属す。明治初年の「国誌」によれば,戸数75,村況については津軽野村に連なり一村のようであったといい,零細な村民は駄賃付けや小作で生計を補い,また平川では鮭・鱒漁も行われていたとある。同9年百田小学を開校したが,同小学は明治17年頃に津軽野村に移転。明治12年の「共武政表」によれば,戸数76・人口513(男283・女230),馬14,物産は大豆・粟・蕎麦・大麦・藍・菜種。同22年和徳村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7252576 |