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浅井(中世)


 戦国期に見える地名。江刺郡のうち。郡主江刺氏一族の居所。南北朝期の康永元年,浅井村で葛西詮清・江刺高嗣の合戦があったと伝える(平姓黒沢氏家譜/県史2‐435頁)。戦国期の大永末年~天文初年と推定される「葛西奉加帳」には,熊野山伏への寄進者として,「五百文 浅井 中務少輔重朝」の名が見える。重朝は郡主江刺氏の一員か(熊野速玉神社文書/県史2‐756頁)。天文13年の頃,江刺三河守信時は葛西晴信の勘当を受け,郡内諸家からも忌避された。信時謹慎の場所となったのが,浅井館である(県史3‐117頁)。浅井館は倉迫城・妻ノ神館とも称する。倉迫集落近くの尾根上にある。比高50m。空濠・水濠の跡を残す。江刺三河守,またはその末孫,江刺舎人(のちに盛岡藩家老)が館主と伝える。麓の慈眼山西泉寺は江刺家の菩提所。曹洞宗。永正9年直心玄横和尚の開基という(安永風土記・仙台領古城館)。本杵の参州館も江刺三河守の居所と伝える。小規模ながら形のよい城である。比高20m。前村の岩清水館は環濠の平城。水田化され遺構を失った。智福館は愛宕神社毘沙門堂背後の独立丘陵。本丸~三の丸跡,空濠が残る。比高70m。向宿の雁舞館も今は水田となる。いずれも館主は不明(同前)。智福愛宕神社毘沙門堂の兜跋毘沙門天像は国重文として名高い。県文化財の毘沙門天三像・十一面観音像もある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252807