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五串村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。磐井郡のうち。仙台藩領。端郷に山谷・本寺の2か村がある。村高は,寛永検地154貫余(田135貫余・畑18貫余),「元禄郷帳」1,322石余,「安永風土記」186貫余(うち給地11貫余),「天保郷帳」1,942石余,「旧高旧領」1,938石余。明和9年の家数349(封内風土記)。「安永風土記」によれば,家数358・人数1,618,馬510,堰2,堤6,産物は煙草・山おし木・麻・鍬台・足駄・真綿・絹まゆ。神社は鎮守の稲荷社のほか三岳権現社・八幡宮・若子宮・二子宮・宇南権現社・神明宮・熊野神社・牛頭天王社,また本寺村の鎮守は山王社,寺院は正法寺末で永正元年の開山といわれる曹洞宗珍沢山長慶寺,ほかに観音堂がある(同前)。五串の滝の景観は,享保年間に「奥羽観蹟聞老志」に記されてから有名となり,天明年間には菅江真澄が「はしわの若葉」にその景観を描写している。また文化元年大肝入大槻丈作(清臣)が天工橋を架けてからさらに来訪者が増加したという。上野の阿部氏は,貞享年間より肝入を世襲した。幕末期には,藩士であり医師でもある斎藤徳治が寺子屋を開き,寺子数34。また本寺村では藩士本庄官司が寺子屋を開き,寺子数20。山谷村では農民の三浦深治が開き,寺子数21。なお山谷・本寺両村兼務の肝入が置かれた。明治元年沼田藩,同2年前橋藩取締,以後胆沢【いさわ】県,一関県,水沢県,磐井県を経て,同9年岩手県に所属。同12年西磐井郡に属す。明治6年五串小学校が開校,同14年校舎新築,同年北白川宮能久親王が来校して滝の景観をみたという。小学校はほかに,明治6年本寺学校・山谷学校が開校。同18年の村の幅員は東西約8里・南北約1里,税地は田189町余・畑118町余・宅地26町余・荒地31町余の計365町余,戸数227・人数1,542,牛20,馬396,小学校の生徒数は五串学校201(男190・女2)・山谷学校131(男のみ),物産は米・大麦・小麦・大豆・小豆・薪・炭・下駄・足駄・鍬柄,職業別戸数は農業191・工業18・商業3・雑業11,また明治12年開業の硫黄鉱山がある(管轄地誌)。同22年厳美村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252951