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磐井郡


文治5年奥州合戦の結果,当郡は鎌倉勢の占領下に置かれた。不作のうえに多勢の逗留が重なり,飢えた人々を救うために葛西清重は,種子・農料を出羽国方面から明春の雪解を待って調達するように源頼朝から命ぜられ,「岩井・伊沢・柄差」の3郡については仙北方面から,「和賀・部(稗)貫」両郡の分は秋田郡からそれぞれ運ばせることとなった。源頼朝の代官として「奥州所務のことを執行すべし」というのが清重に与えられた任務の一環であった(吾妻鏡文治5年11月8日条)。清重は同時に,陸奥国内御家人の統制,平泉郡内検非違使所の管領(罪科の糾弾)などのことも命じられている(同前文治5年9月22・24日条)。北奥羽から,さらには奥州全域にまで及ぶ広汎な葛西氏の職権は,平泉藤原氏のそれを継承したものとみられる。大河兼任の乱が終わり,建久元年3月,陸奥国留守職が設置されて,多賀国府に伊沢家景が赴任したのちも,葛西氏の職務は失われることなく継続した。これが葛西・伊沢両氏の職務を総称して,奥州惣奉行という所以である(中世奥羽の世界)。同じく奥州合戦の結果,葛西清重は,岩井郡を始めとする広大な領域の地頭職をも拝領することとなった。「吾妻鏡」文治5年9月24日条には「伊沢・磐井・牡鹿等已下」の数か所と記されているが,鎌倉後期中尊寺衆徒らの証言によれば,「岩井・牡鹿以下五郡二保」がその正確な内容であった(中尊寺文書嘉元3年3月日衆徒等言上状)。同じく,衆徒らの証言によれば,江刺郡も五郡二保に含まれていたという。「葛西本所五郡二保とハ,江刺・伊沢郡,気仙ニ,元良ニ,岩井郡,興田保・黄海保,是也」とする「余目氏旧記」(永正11年)の伝承が大筋において正当であることが知られる。ただし,本吉(宮城県)には熊谷氏入部の確証があり,牡鹿(宮城県)と入れかえるべきであろう。この五郡二保のうち,四郡二保が岩手県内に属する。藤原泰衡滅亡後の平泉は,鎌倉幕府の直轄都市となり,その繁栄を維持した。名称も平泉の保と改められ,岩井郡とは異なる,特別扱いをうけることとなった。いわゆる奥州惣奉行の職責を果たし,五郡二保の地頭職を知行する葛西氏の本拠は平泉にあったものとみられる。「封内風土記」には平泉中尊寺の南,高館の西に「葛西宅地遺址」ありと記されている。奥州惣奉行ならびに平泉郡内検非違使所管領の職責を果たすためにこの地に宅を構えた葛西氏は3代にわたって居住したのちに登米郡(宮城県)に移ったとされる。葛西氏は下総国の御家人。皇太神宮領葛西御厨を本貫の地とする。坂東八平氏のうち秩父の系統に属する。よく知られた系図によれば,初代清重のあとは,清親―清時―清経―清宗(宗清)―清貞―良清―満良―満清―持重―信重―満重―宗清―晴重―晴胤―親信―晴信と続く。鎌倉期における葛西氏の総領(当主)は将軍に近侍して在鎌倉のことが多かった。しかし,五郡二保地頭たる葛西氏の現地支配は少しも弱まることはなかった。各所に葛西の一族・家臣が配置され,土着の勢力を蓄えた古代以来の旧郡司が葛西の代官・家臣となって土着勢力を維持した場合もある。鎌倉後期の弘安8年,葛西三郎宗清・伊豆太郎時貞,葛西彦五郎親時の代官青戸二郎重茂らは中尊・毛越両寺僧の岩井・伊沢両郡における山野草木の採用を妨げ,寺領土民を狩などの雑事に召し使い,銭賃を宛て取り,さらには寺領衣河北保村に乱入し,用水工事のためと称して垣林を切り払い,止めに入った寺僧らを人質とするなどの非法によって幕府に訴えられた(中尊寺文書正応元年7月9日関東裁許状)。岩井・伊沢両郡内においても,葛西の一族・家臣がその勢力を伸長させつつあったことが知られる。戦国大名葛西氏の基礎はすでに鎌倉期において形成されていたものと見られる。南北朝期における葛西氏の活躍,奥州宮方勢の柱石たることは周知の通りである。岩井郡内でも多くの武士が葛西宗家とともに参戦したと伝える。葛西刑部左衛門忠徳(西岩井黒沢)・同宮内卿信元・同掃部則成(平泉)・小野寺主計頭重明(西岩井山ノ目中里)・同掃部介胤正(同前)・岩淵讃岐守正経(流涌津北館)・同宮内少輔経清(東山藤沢)・同掃部介重勝(東山曽慶中館)・長坂治部少輔顕胤(東山長坂唐梅城)・薄衣内匠頭清村(東山薄衣)・千葉大炊介胤常(薄衣米倉城)・千葉隼人正安胤(東山奥玉新館)・奈良坂主馬介延平(流奈良坂)・千田和泉守信親(東山長坂)・金野山城守康長(東山千厩)・星美濃守胤勝(東山徳田郷)・黒沢新左衛門重尚(西岩井黒沢)・小野寺左衛門尉重保(東山松川)・清水弾正重長(流)などの人名が知られる(県史2‐323~326頁)。南北朝期・室町期を過ぎて戦国期に入る頃には,五郡二保に加えて,登米・遠田・桃生・本吉・栗原などの宮城県域諸郡,さらには奥玉・柳戸などの諸保までもが葛西領域に包摂されることとなった。岩手県南から宮城県北の広大な領域に及ぶ大名領国,北上川流域を中心として東は太平洋岸にまで及ぶ葛西氏の領国が形成されることになった。その政治的中心は登米郡の寺池城(登米)であった。平泉は中心都市たる地位を失うに至った。この広大な葛西領国を総称して「葛西七郡」とする説が「奥州葛西記」「葛西盛衰記」「葛西実記」「葛西真記録」などの諸本に見られる。たとえば,「奥州葛西記」によれば,松浦郡六十六郷(上伊沢33郷・下伊沢24郷・西根9郷)・磐井郡五十七郷(東山33郷・西磐井24郷)・高倉郡五十五郷(流24郷・一迫7郷・二迫7郷・三迫17郷)・竹駒郡六十郷(気仙24郷・本吉12郷・桃生24郷)・門岡郡六十一郷(江刺44郷・牡鹿17郷)・寺池郡四十八郷(登米17郷・袋中24郷・佐沼7郷)・遠田郡六十六郷(南遠田33郷・北遠田33郷)をあわせた7郡400余郷が葛西領国を形成したとされる(県史2‐521頁)。これら近世の諸記録に見える葛西七郡の説が,戦国期の葛西領国において公式に用いられたとする根拠は乏しい。戦国末期,あるいは近世初期になってから通用されるようになった俗称(私称)かと思われる。岩井郡に関していえば,平安末・鎌倉期~室町期における郡域は意外に狭く,西岩井24郷と東山(北上河東)の一部のみであった。現在の花泉町付近は高倉荘域に含まれ,荘園が廃された戦国期には流24郷と称された。現在の藤沢町の黄海川流域は黄海保,千厩町東部は奥玉保,大東町の興田川流域は興田保として,それぞれ岩井郡からは独立した行政区域として扱われていた。黄海・奥玉・興田の三保をも含めて東山(東岩井郡)のうちに算入することは戦国期になってからとみられる。さらに流24郷をも加えて,近代の磐井郡域に近い姿となるのは近世に入ってからであった。いわゆる葛西七郡内の各地には葛西の一族・家臣が勢力を広げ,要所要所に城郭を構えて割拠の形勢を示した。岩井郡内における一族・家臣の動向については,南北朝期に宮方として活躍したと伝えられる諸士の交名(前記の名簿)からもその一端が察せられよう。交名に見えた諸士の跡を継いで,郡内の各地に割拠した諸家の名が知られる。一関・二関・三関・小野寺・黒沢・佐藤・阿部・赤萩・小岩・千葉・滝沢・増沢(以上西岩井),金沢・寺沢・飯倉・小野寺・金森・富沢・岩淵・清水・奈良坂・中村・大槻・男沢・永井・阿部・千葉・鬼死骸千葉(以上流),大原・熊谷・亀掛川・及川・岩淵・奥玉・摺沢・下折壁・横沢・小梨・首藤・菅原・仏坂・濁沼・千厩金・金野・藤沢・星・長坂・松川・鳥畑・長島・相川・門崎・布佐・薄衣・黄海・西城・千田・深堀・白石・小野寺・笹町・柴又・千葉・村上・猪岡・小島・猿沢・中津山(以上東磐井)など(県史3‐934頁)。これらの諸家は,岩井郡内それぞれの地域(流・奥玉・黄海・興田などをも含めて)において,葛西の傘下にありながらも,一揆的な結合をもって独立を保ち,時には相互の角逐から外部の勢力とも結び合従連衡を繰り返すなどして,戦国末期にまで至った。天正18年豊臣秀吉の奥州仕置による葛西氏の没落は同時に,これら諸家の没落をも意味した。在地土着の勢力を喪失したこれら諸家の人々は,伊達・南部などの諸家に仕えるもの,帰農するものなど様々な運命をたどった。天正19年のいわゆる葛西大崎一揆ののち,岩井郡を含む旧葛西領は全て伊達政宗の領国とされた。葛西氏没落のあとを受けて入部した上方大名木村吉清の統治は一揆の勃発によって短期間のうちに崩壊に帰し,伊達氏の入部となった。一関城が郡内統治の中心となるのは仙台伊達藩政期になってからのことである。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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