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薄衣村(近代)


 明治22年~昭和31年の東磐井郡の自治体名。大字は編成せず。戸数・人口は明治22年521・3,417,同34年606・4,019。世帯数・人口は大正9年658・4,181,昭和10年748・4,430,同25年839・5,150。大正8年の物産は米2,961石・大麦2,836石・小麦834石・裸麦59石・大豆825石・小豆92石・粟11石・蕎麦20石・大根11万7,500貫・馬鈴薯1万3,910貫・蔬菜6,650貫・煙草2,504貫・桑葉9万8,520貫・果実3,950貫・甘藷1万5,000貫・楮1,690貫(県町村誌)。同9年の民有地は田172町7反・畑369町6反・宅地49町3反・山林751町8反・原野15町7反。昭和10年の職業別戸数は農業476・水産業1・鉱業11・工業75・商業71・交通業28・公務自由業37(県統計年鑑)。同12年の総生産額51万2,000円のうち農産39万9,000円・醸造物3万2,000円・鉱産1万8,000円(県郷土誌)。明治22年県道気仙沼街道工事が起工され,同27年開通。同年の県道花泉街道開通後人力車・幌馬車・荷馬車による旅客・荷物の輸送が頻繁となる。明治23年地内栃木の小野寺喜惣右衛門が字滝野に水車式の80人繰り製糸工場を設置。同25~26年当時薄衣矢作青年研学会が組織される。会員は30~40名。有志の寄付を資金に書籍を購入して勉学。同27年伊藤六平が2頭立馬車,ついで伊藤平七が1頭立馬車を走らせる。この頃佐伯旅館の赤塗馬車と赤沢旅館の黒塗馬車が薄衣~千厩間を18銭で走る。同33年120人繰りの製糸工場が矢作前真福寺跡に移転。この時,県最初の農商務省の補助による蒸気汽罐が設置される。地内加妻に伊藤加妻製糸所,栃木に原田製糸所,大正期に入って矢作田中裏に高専製糸所・金野横石製糸所が操業。この頃村内にあった諸工業は製材所・酒造所・醤油製造業・染色業・製織業・石材業・セメント工業・割箸工業・砂利採集工業など。明治34年頃から桑市が開かれ,舞川方面の桑が上川桑の名で,北上川下流の桑が下川桑の名で搬入される。一朝の取扱い量は10~20隻。同35年薄衣矢作郵便局が開業。同36年明治初年に設置された火消組に替わって公設消防組がつくられ,組員は80名。同37年博愛婦人会が結成される。同37~38年北上川を石油発動機船が航行するようになる。薄衣波止場から狐禅寺まで1日2往復。また,従来の馬車に車が加わり交通の拠点となる。このにぎわいにより当地は東山の横浜と呼ばれる。同43年8月13日から大雨,9月14日再び大雨に見舞われ,被害は漆崎1丈5尺,高町2階下まで,上新道2階まで,安養寺床下まで浸水。同規模の水害が大正2年にもみられる。大正初年青年会活動が盛んになり,大正3年薄衣実業青年倶楽部が結成され村内の青年70余名が参加。同6年薄衣青年団となる(薄衣の曙史考)。同8年郡内米穀商の手元米が底をついたため,郡役所は各農家に自家用を除くすべての米を小売商に売り渡すように指示した。同12年薄衣郵便局に公設電話の設置が決まる。昭和6年岩手銀行薄衣支店,盛岡銀行薄衣出張所が景気のあおりを受けて営業を停止(同前)。同7~8年車馬の通行を容易にするため柳沢線・高野線・石橋線・七日町線・外山線・長坂線を改修。北上大橋の架橋工事は昭和8年に始まり,同13年にようやく竣工。途中,完成寸前の橋が洪水に押し流されるという事故があった。同年割山が3年がかりで開削される。同18年健康保険組合が設置される。同22年薄衣中学校,同23年県立千厩高校定時制薄衣分校(同40年廃校)設置。水害は昭和20年代に頻発,昭和22・23・26年に計6回の被害に見舞われ,昭和22年7・8月は地内諏訪前で床上4~5尺,同年9月(カスリーン台風)には2階床上4尺,昭和23年8月には諏訪前で床上3尺,同年9月(アイオン台風)には2階床上5寸~1尺,昭和26年3月には13m50cmの増水があった(薄衣村史)。同31年川崎村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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