大原村(近世)

江戸期~明治22年の村名。磐井郡のうち。大原村宿ともいう(元禄郷帳)。仙台藩領。村高は,寛永検地228貫余(田135貫余・畑93貫余),「元禄郷帳」2,090石余,「安永風土記」270貫余(田146貫余・畑123貫余),「天保郷帳」2,751石余,「旧高旧領」2,747石余。寛永19年の検地帳によれば,本百姓283で,村住居194軒に対し町住居89軒(うち一日市町67・上町16・六日町5・新町1)。明和9年の家数520(封内風土記)。「安永風土記」によれば,人頭533(うち寺5・修験8),家数585(うち名子8・水呑35・被官6・借屋3)・人数3,015(男1,610・女1,405),寺院は真言宗慈眼山八幡寺・同宗八幡寺脇院司東庵・曹洞宗亀峰山長泉寺・同宗岩松山経竜寺・同宗霊苗山新山寺,修験は,羽黒派の続石山大原寺・良善院・日林坊・宝善坊・福正坊・威定院・光学院・吉祥院,神社は,鎮守の八幡社のほか高義明神社・愛宕社2・春日社・雷神社・稲荷社・葉山社・続石明神社・神明社・若宮八幡宮・烏神社・金井社・折居権現社・荒太神社・滝明神社・法両権現社・熊野社3,ほかに観音堂4・薬師堂・金剛童子堂・勝善堂がある。また雑穀御蔵3棟からなる御蔵場1,物産は砂鉄・煙草・足袋。地内には代官所と東山北方の大肝入会所が設置され,取締りのため足軽46人が配置されている。当村の給人は,粟野大膳大輔が文禄2年所替となり,その後大条長三郎,慶安年間からは氏家主水清勝が寛文2年まで給人となっている。伊達宗房は万治2年から寛文6年まで当地に給地を有したが,その長子吉村は,当村にて出生し,綱村の嗣となり,藩主となるや藩政改革を行った。元禄15年伹木志摩が給人となり,その子土佐が跡を継いだが,宝暦7年黒川郡吉岡に所替となり,かわって平賀氏が幕末に至るまで給人となる。鎮守八幡神社は源頼義・義家父子が,安倍氏平定後京都石清水八幡社を勧請したものと伝える。伊達吉村(獅山公)は享保8年当社に参拝し,御太刀1振・祭田1貫文を納めた。同社には御手植の楓があったが,数年前枯死した。正月18日に行われる水掛祭の神事がある。長泉寺は永保2年に創立されたと伝えている。砂鉄は,元文年間に稲作期間を避けて採集することが申し渡され,寛保・延享年間に多い年は1,775石,少ない年で234石余を産している。東山の山先2人・気仙の山先2人・本吉の山先3人の合計7人の採集者があった。これらの砂鉄は荒鉄となり,さらに延鉄に製錬され,鉈・鎌・鍬・鋸・鉞・鉋などに製造された。特に鍬は藩の補助による購入奨励もあったので,広く領内へ売り出されている。烔屋は栃沢山・山口山・出沢山などがある。「御村渡世三ケ弐御売分山」に八ケ山の御林がある。これは大原村の山先は無料で烔屋炭を利用できる御林である。他村の山先の場合は3分の1の代金を藩に上納し利用することができた。こうして製鉄・製塩を容易にしていた。弘化4年御役帳によれば,諸職人は大工7・染師5・鍛冶3・桶結2・木挽8・小羽屋根葺3・屑屋根葺1・石工2・炭焼1・壁塗1・塗師1・山立猟師22・清酒屋1・室師10,小川役は2か所,漆木は7,966本。嘉永4年の人数帳によれば,村高228貫余,人頭538・人数2,751(男1,425・女1,326)。同年の産出見込によれば,煙草4,800貫目・金600切,紅花144貫目・金720切,生糸90貫目・金2,000切,桑3万貫目・金750切,砂鉄3万4,000駄・金1,451切,楮1,200貫目・金100切,2歳馬13疋・金208切となっており,金1,457両1歩の収入見込となっている。明治元年安藤氏(旧磐城平藩主)領,同2年前橋藩取締,以後胆沢【いさわ】県,一関県,水沢県,磐井県を経て,同9年岩手県に所属。同12年東磐井郡に属す。明治初年に金菱州の岳麓書院,野村盤陵の蓬原義塾などの私塾があり,同6年大原本郷小学校・新山小学校が開校,翌7年両校を合併して大原小学校と改称。同16年の大原学区は,学齢人員557(うち生徒数403),学校費885円19銭。同19年大原尋常小学校と改称。明治17年戸長役場が設置される。同18年の村の幅員は東西約2里17町・南北4里,税地は田233町余・畑449町余・宅地44町余・荒地111町余の計839町余,戸数622(うち農業614)・人数3,537(男1,794・女1,743),馬782,大原小学校の生徒数140(男130・女10),物産は鹿・猪・雉子・桑・林檎・楮・紅花・煙草・砂鉄・石灰・真綿・生糸。また砂鉄は村の北の石鍋山から産出し,明治8年の開業で年間産出高4万貫(管轄地誌)。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7253191 |





