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釜石村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。閉伊【へい】郡のうち。古くは甲子浦・平田を含めて釜石郷といい,遠野十二郷の上六郷の1つであった(阿曽沼興廃記)。はじめ当村の中心は西部の甲子にあり,東部の海岸付近は「甲子浦」と称した。のち元禄頃当村の中心が東部の海岸地域(浜・浦・湊ともいう)に移るにつれ,当村を浜釜石村とも称し,「天保郷帳」などには浜釜石村と見える。慶長6年北部の丘陵上に位置する狐崎城(城主荒谷肥後)に葛西氏旧臣鹿折信濃(本吉郡鹿折村忍館主千葉信濃)が浪人・金掘人夫らを集めて立籠り一揆を起こしたが,伊達政宗軍は麾下中島大蔵らをして海陸二手から攻め,籠城の161人を皆殺しにした。盛岡藩領。大槌通に属す。慶長17年平清水平衛門知行地として閉伊郡のうち釜石村391石余とある(阿曽沼興廃記)。村高は,「正保郷村帳」180石余(田1石余・畑178石余),「貞享高辻帳」56石余,寛保3年「大槌通役高除高給所寺領与力高一見帳」120石余,「邦内郷村志」122石余,「天保郷帳」では浜釜石村として327石余,「安政高辻帳」でも浜釜石村として262石余,「旧高旧領」122石余。「仮名付帳」によれば,浜釜石村の枝村として嬉石浜村・松原村・甲子村・両石村・水海村が見える。正保2年の絵図書上には,領内湊14か所の1つに釜石湊が見え,文化元年の書上では領内16湊の1つとして浜釜石湊と見える(県史5)。元和2年はじめて釜石村肝煎が置かれ,ふか口近江助四郎が任命された(野田武義家文書)。同年平田【へいた】村(現釜石市)から豊間根村(現下閉伊郡山田町)にかけて合計3,000石を知行した大槌孫八郎(大槌城主阿曽沼一門)は,片岸・釜石浦で捕獲した鮭を商船で江戸に運んだが,交易に名を借りた幕府禁制の大船使用の罪で,南部氏により滅ぼされた(永出板沢家文書)。元禄14年海辺大奉行・釜石十分一役所が設置され,翌15年から取立てが始まる。天明3年の飢饉では,村内449軒のうち333軒が窮迫した(大槌古今代伝記)。「邦内郷村志」によれば,家数435うち村内集落として中妻目15・鈴子4・松原16・宇礼石浜49,馬数101,雑船107,塩釜2。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の上,家数446,集落別内訳は本村350・中妻29・松原20・鈴子3・嬉石42。文政元年「大槌通諸船塩釜御改帳」によれば,与板沖漁船18・雑船五大力網引船2・五大力5・小天頭70・御肴船小天頭6・御肴船丸木船1,商船弁財造95石積千手丸,塩釜9貫750文1工とある。また,慶応3年「大槌録」によれば,牛数35・馬数75,網師5・船小宿12・廻船問屋1・鮪建網2・博労2,小煎釜15・鉄塩釜1,沖漁船12・雑船41・御肴船7,小商船25石積薬師丸・橋野鉄鉱山御手船200石積竜神丸・150石積鷹吉丸(慶応元年7月破船),鎌崎御台場の装備は三貫目唐鉄御筒鎮国1・三貫目鉏鋳玉153・国石丸3・合薬19貫540匁とある。元和3年天台宗大天山観音寺は3世清慶の時本山(三井寺)から公称允許。寛文10年曹洞宗明峰山石応寺創立,延宝2年公称允許される。元禄12年尾崎明神(平田村,奉米毎月1俵,祭日9月29日,別当宝成院)の御旅長床,鳥居を造立。享保4年に大明神号宣旨。総鎮守大天場権現は正徳2年に正一位を授かる。安永3年の名子解放・冥加銭賦課に対して,同6年当村組頭以下数十名が遠野役人に越訴を試みるという新地反対一揆が起きた。この一揆は「釜石新地騒動」「佐助騒動」と称される。また,文化11年には小百姓を中心とする約500人が新役・増税の徴収に来た役人の宿5か所を打ちこわし強訴に及ぶという新税反対一揆が起きており,さらに文政8年には藩の塩専売に反対して塩問屋・塩役人の宿を打ちこわすという一揆が起き,この場合には塩専売は一時中止された。さらに,三閉伊通では,弘化4年・嘉永6年に藩政改革を要求する百姓一揆が起きている(釜石市誌通史)。明治元年松本藩取締,以後江刺県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同12年南閉伊郡に属す。明治6年釜石小学校創立。同年釜石郵便局開局。同7年甲子村の大橋鉄鉱山は民営から官業に変更。また,当村鈴子に釜石製鉄所建設開始。同9年釜石~大橋間に鉄道が起工,同13年完成。鉄道開通は日本で3番目という。明治8年の「ザ・ジャパン・ウイクリー・メイル」によれば,戸数792・人口3,995,神社15,寺院2。同年警察出張所が設置され,同12年釜石警察署となる。明治11年の村の幅員は東西1里14町・南北33町,税地は田12町余・畑108町余・宅地12町余など計135町余,戸数807・人口3,531(男1,719・女1,812),牛15,馬64,舟134(商船4・漁船130),公立小学釜石学校の生徒数62(男55・女7),職業別戸数は農業91・工業45・商業190・雑業464,物産は馬・牛・鹿・猪・鮭・鮹・赤魚・鮑・鱈・鮪・鰹節・米・大豆・小豆・大麦・若布・塩・清酒・鰯粕・鰯油など,ほかに鉱山分局鎔鉄場があった(管轄地誌)。同14年の漁獲高は,海鮭3万本・川鮭10万本余・鮪3万本余・鯣36万枚・鮪節7,000本余・鰹3万本余・鰹節7万本・干鮑10俵・赤魚7万本(明治14~16年南閉伊郡釜石村海産物品表)。同15年釜石・平田・甲子の3か村の連合戸長役場を当村に設置。同年7月コレラ大流行,11郡43か村に蔓延,総患者700人余・死亡300人,うち釜石では502人罹病,死者204人(岩手県文書)。同16年官営釜石製鉄所廃業。同年の戸数901・人口4,360,生徒数257。同17年東京の田中長兵衛・横山久太郎が釜石製鉄所工場の土地を一部借用し,5,000tの溶焼鉱石を利用して製鉄を開始,同19年10月16日,49回目に製鉄に成功。同20年田中長兵衛は政府から工場施設の払下げを受け,釜石鉱山田中製鉄所を発足,現在の新日本製鉄釜石製鉄所の基礎を築く。同22年の釜石鉱山田中製鉄所の生産高2,846t余(農商務省鉱山局刊釜石鉄山調査報告)。同年釜石町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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