北上川

北上川の水運は,明治5年の地租貢米金納制を契機に,江戸廻米のための艜船・小繰船とも用を失い,民間事業に移行した。明治12年の河港の出入船は,新山177隻,黒沢尻134隻,狐禅寺12隻,同15年には狐禅寺に初めて蒸気船が入港。舟運会社は,明治12年頃設立された岩手組と,同18年岩手組から発展した北上【ほくじよう】廻漕会社が有名。同会社は,本社が盛岡市紺屋町に置かれ,資本金1万2,000円,株主のほとんどが盛岡市の商人であった。水運はその後も順調に発展,同20年の出入船は,新山212隻・黒沢尻150隻・狐禅寺215隻・薄衣132隻,蒸気船は狐禅寺333隻・薄衣666隻となる(県史10)。この少し前,明治17年には河川運送取締規則により運遭営業人による運遭取扱所が,新山河岸・花巻・黒沢尻河岸・下川原・跡呂井・中袋・目呂木・柵ノ瀬・狐禅寺・薄衣・七日町に設置される。同取扱所の運賃は,1艘雇切(100石積),荷物1駄(1駄40貫目),乗客運賃(3歳未満無賃・3~10歳・10歳以上)に区分され,上航は下航より2割程度割高であった。黒沢尻~石巻間の所要日数は,夏季が上航13日,下航3日,冬季が上航18日,下航4日。順調に発展した舟運も,同23年の日本鉄道(現国鉄東北本線)の開通によって深刻な打撃を受ける。この様子を狐禅寺河港の輸送額でみると,同22年に9万3,174円であったものが,同23年4万4,401円,同24年1万4,469円と激減している。北上川の洪水の回数は,17世紀に39回,18世紀に67回,19世紀に76回,20世紀(1948年まで)23回と,現代に近づくほど多くなっている。これは人口の増加によって,氾濫原や水源涵養林が人々の利用の対象となってきたことの反映である。明治43年9月3日の盛岡市の大洪水は,上の橋・与の字橋・明治橋・葛西橋が落ち,中津川沿いの下小路・磧町・鍛冶町裏・紺屋町・川原小路・馬場小路・鷹匠小路が浸水,床上浸水1,343戸・床下浸水147戸・全壊17戸・半壊49戸・破損271戸・流失69戸であった(明治以降における北上川治水の歴史地理学的分析に関する覚え書)。治水事業は,明治13~35年の水運の興隆を目的とする国営低水工事,同44年の水害防止のための北上改修工事があるが,狐禅寺峡谷上流を対象とする水害防止事業は第2次大戦後に持ち越される。昭和22年9月14・15日のカスリーン台風による大洪水は,狐禅寺の水位を15.6m(平水位11.9m)とし,氾濫面積は2万6,017町歩に及ぶ。県下の被害は,死者45名,行方不明者44名,倒壊家屋274戸・流失家屋422戸・浸水家屋2万9,265戸,冠水田2.7万町歩・冠水畑1.4万町歩,被害総額は54億円。翌23年9月16日・17日のアイオン台風による大洪水は,磐井橋(一関市)の水位を3時間で8m近くも押し上げる。一関市の被害は,死亡・行方不明473名・負傷4,960名,罹災家屋3,883戸・流失家屋468戸,冠水田畑1,085町歩,被害総額30億円余。治水事業は北上特定地域総合開発計画の一環として取り上げられる。主要事業は狐禅寺峡谷の最大流量を毎分9,000m[sup]3[/sup]とし,これを上回る2,700m[sup]3[/sup]を北上川本流の四十四田ダム(昭和43年完成),雫石川の御所ダム(同57年3月完成),猿ケ石川の田瀬ダム(昭和29年完成),和賀川の湯田ダム(同40年完成),胆沢川の石淵ダム(昭和28年完成)の五大ダムに貯水するなど,カスリーン台風クラスの出水にあっても被害を出さないことを基本としている。5大ダムは他の機能を合わせ持つ多目的ダムで,農業用水の強化を目的につくられた丹藤川の岩洞ダム(同43年完成),滝名川の山王海ダム(昭和27年3月完成),豊沢川の豊沢ダム(同40年完成)とともに農業生産力の向上に役立つ。これらと関係する土地改良事業は,国営灌漑排水事業が山王海3,258ha,豊沢川5,316ha,猿ケ石川6,272ha,胆沢川7,272ha,雫石川沿岸5,000ha,和賀中央4,053ha,県営灌漑事業が14地区1万6,362ha,国営農用地開発事業が須川523ha(うち開田370ha),岩手山麓8,345ha(うち開田1,989ha),猿ケ石4,519ha(うち開田2,724ha),和賀中央4,038ha(うち開田1,706ha),駒ケ岳山麓970ha,県営圃場整備事業が18地区8,502haとなっている。事業の進展は,田・畑・原野などの入り混じった北上川筋の農業景観を,水田の卓越した景観に一変させてきた。近年,北上川は,農薬の使用による汚染排水の流入,鉱工業の発達による有毒水の流入,住宅の増加による家庭排水の流入によって,汚染が著しく目立っている。「やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」と歌った石川啄木の頃の清流,イギリス海岸と呼んで親しんだ宮沢賢治の頃の美しい河岸風景の喪失は,開発の代償としてはあまりに大きい。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7253535 |





