気仙郡

天正18年の小田原の陣後,当郡や江刺郡などを領した葛西氏が豊臣秀吉によってその所領を没収され,その旧領は大崎氏旧領とともに木村吉清・清久父子の所領とされた。しかし,同年には葛西・大崎氏旧臣らによる葛西大崎一揆によって木村氏が追われて,翌19年伊達氏領(仙台藩領)とされるに至った。伊達氏は一族など主な家臣を領内各所に封じたが,当郡はすべて御蔵入地であった。今泉に代官所が置かれたほか,北部が盛岡藩と境を接し,領境をめぐってたびたび紛争となることもあったため,下有住【しもありす】・上有住・唐丹【とうに】の3か所に番所を設けて,御境横目を配置し,人馬・物資の出入を監視した。村数・総高は,寛永検地24か村・1,438貫余(田665貫余・772貫余),「元禄郷帳」24か村・1万2,900石余,「天保郷帳」24か村・1万5,522石余,「旧高旧領」24か村・1万5,626石余。仙台藩領の他郡と比較すると江戸期を通じて総高に大きな変化が見られず,正徳2年の「伊達氏領地目録」には内高1万2,900石余とあり,表高と変わりない。耕地が少なく新田開発もままならなかった。「封内風土記」では戸数5,150。三陸海岸では初期から漁業が発達し,延宝年間以後の漁業法の発達と,貿易品となる長崎俵物が重視されて同海岸の海産物の需要が増加して商品としての生産が本格化,豪商が輩出されるようになった。三陸海岸の長崎俵物には昆布・鮫・鰭・煮海鼠・干鮑・鰹節があり,鰹節以外は同じく長崎俵物を産した松前のものより三陸海岸のものが優れていた(県史4)。また,気仙川では鮭・鱒漁などの河川漁業が営まれた。寛永14年の洪水で河道が変わったことから,従来は高田村の漁師30人が2日,今泉村の漁師16人が1日と交互に漁をする習慣が崩れ,この2か村の間で数年にわたる激しい利害争いが行われたことが知られる(同前)。玉山・世田米などの金山は葛西氏領であった頃より既に発掘がなされ,仙台藩領下となってからも藩の財源として,また,幕府への献上金として,その開発が進められた。伊達政宗による支倉常長一行のバチカン派遣も,玉山金山から採掘された金で賄われたといわれる。しかし,これら玉山などの金山は江戸初期頃までの金山で正保年間には金の産出がなくなっている(同前)。安永3年当郡で疫病が流行し,その患者数1万3,473,死者2,107人であった(同前)。郡内には海岸沿いに浜街道が通り,東西に盛街道があって海産物が内陸部へ運ばれた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7253672 |