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下河原村(中世)


 戦国期に見える村名。伊沢郡のうち。戦国武士下河原氏の本拠地。下河原玄蕃恒忠は江刺郡伊手郷高屋城主及川豊前守則氏の次男。伊沢郡主柏山伊勢守明重の家臣となり,同郡下河原に200石を給される。柏山氏没落後は,花巻南部彦九郎政直の家臣となる。慶長6年岩崎陣の際も,下河原若狭の名が南部勢中に見える(下河原氏の系譜は県史3‐34頁)。「深秘抄」(奥南旧指録)にも,「及川・下河原・小田代は高屋氏の別なり」と見える。天文3年8月7日柏山明吉宛行状には,「伊沢郡下河原村ニて七千苅」そのほかを石河越後守が給されたと記す(半入石川彦次郎文書/水沢市史2)。石川彦次郎に下河原3,000苅を与えた葛西晴信の宛行状も伝存する(平泉地蔵堂文書)。下河原及川氏と石川氏の関連は不明。下河原安養寺東隣の下河原内館(轟館)は下河原玄蕃の居館か。内館の主郭は東西150m・南北80mの平城。土塁・水濠をめぐらす。副郭の東館(東西50m・南北80m)がそれに連なる(仙台領古城館)。東館のさらに東隣には要害館,その南側には永井館が連なる。いずれも土塁・水濠跡を残す。これらも下河原内館の副郭をなすものとみられる。下河原竈堂の堀ノ内館,下河原館の御伊勢堂館,同じく毘沙門館のいずれも水田中の居館址。館主は不明(同前)。御伊勢堂の伊勢社は葛西晴信の勧請と伝える(安永風土記)。へっついの竈神社は天喜5年源義家宿陣の台所跡に勧請したものという。松堂の毘沙門堂は延暦年間,田村将軍の勧請(同前)。内館の曹洞宗光明山安養寺は珊光素玉和尚の文明5年開山,永徳寺村永徳寺の末寺。吹張の曹洞宗法王山宝福寺は出叟文運和尚の文明3年開山,同じく永徳寺末。荒屋敷の当山派修験和光院(藤古山)は不動院法正の永正年中開院。松堂の羽黒派明楽院(松堂山多聞寺)は衿迦院元海の天正年間開院。葛西家没落に際しては,別当所の毘沙門堂ともども焼失したという(同前)。下河原道場屋敷菊池氏宅地には無年号の中世板碑1基が残る(岩手の歴史論集2)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7253902