100辞書・辞典一括検索

JLogos

18

西口村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。磐井郡のうち。仙台藩領。村高は,寛永検地47貫余(田23貫余・畑23貫余),「元禄郷帳」434石余,「安永風土記」52貫余(田25貫余・畑26貫余),「天保郷帳」「旧高旧領」ともに526石余。「寛永検地帳」によれば,反別は田19町余・畑100町余。また中田6貫余・下田11貫余,中畑2貫余・下畑11貫余。明和9年の家数109(封内風土記)。「安永風土記」によれば,蔵入地22貫余・給地29貫余,人頭113(うち寺1),家数118(うち水呑5)・人数713(男402・女311),馬108,神社は鎮守の牛頭天王社のほか愛宕社4・神明社1・白山社2・熊野社1,寺院は曹洞宗愛宕山玉川寺,修験は羽黒派遥雲院・妙照院・不動院,仏閣は観音堂3があり,また堰9・堤78がある。「寛永検地帳」での人頭44の内訳は,家中1・本百姓41・寺1・山伏1。延宝5年の人頭47・人数804(男423・女381),安永10年の人頭114・人数730(男390・女340),文政3年の人頭123・人数646(男359・女287),嘉永2年の人頭128・人数男390・女357の計747(藤沢町史)。豊臣秀吉の奥州平定後に金の採取が盛んとなり,砂金採掘者に与えられる御本判(許可証)は,慶長5年31・寛文8年45半・元禄3年34・文化15年37・天保5年34が残っている。延宝年間掘子288人半から1人につき砂金3分4厘の面役を取り立てる(西口村本判御役取立帳)。村の特産品に和紙があり,寛永19年隣村の薄衣村で紙漉が行われていることからみても,当地方の楮生産の起源はかなり古いものと思われる。天明・安永・安政年間,久左衛門が紙漉のかたわら楮の売り渡しを行う。楮の売却は楮皮が普通であるけれども,枝条の生木売りをすることもあった(及川農夫・及川キミ子家文書)。漆の栽培も藩の奨励によって盛んに行われ,漆木は,明和8年・安永4年・天明6年とも3,000本近い(及川農夫家文書)。新田開発は,寛政10年1町余,享和2年2畝。幕末期には凶作に苦しみ,生活困窮者を助けるために御郡備の金石の貸付制度や社倉御備穀の制度がつくられる。天明6年この制度によって米の給与をうけた極貧者は31人頭・96人で,この数は全人頭の34%に及ぶ(同前)。天明元年の洪水では,黄海村境三本松の土手が長さ100間余・幅5間余・高さ3間余にわたって大破した(及川キミ子家文書)。また寛政7年8月9・20日,同年9月4日には家屋の全壊1・大破21,葉煙草・楮・大豆などには被害のため上納が不可能なものもあった。同年10月16日再び豪雨に見舞われ,いたる所に砂置・土手切・堰切・堤切・水門破れ・山崩れ・街道切・橋の流失があった。復旧工事は容易に進まず,年貢や諸役の免除を願い出るものが多数あった(及川農夫家文書)。明治元年安藤氏(旧磐城平藩主)領,同2年前橋藩取締,以後胆沢【いさわ】県,一関県,水沢県,磐井県を経て,同9年岩手県に所属。同12年東磐井郡に属す。幕末~明治初年の塾・寺子屋は遥雲院・妙照院・及川某宅に置かれる。明治8年黄海小学校日新分校が西口小学校となる。同18年の村の幅員は東西約29町・南北約30町,税地は田51町余・畑125町余・宅地12町余・荒地3町余の計193町余,戸数133(うち農業130)・人口849(男423・女426),馬113,西口小学校の生徒数64(男51・女13),物産は米・大豆・莨・竹・楮皮・真綿・生糸(管轄地誌)。同22年藤沢村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7254498