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八幡村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。稗貫【ひえぬき】郡のうち。盛岡藩領。寛文7年八幡通に属す。村高は,「正保郷村帳」313石余(田291石余・畑21石余),「貞享高辻帳」368石余,「邦内郷村志」1,109石余(うち給地212石余),「天保郷帳」1,109石余,「安政高辻帳」889石余,「旧高旧領」1,141石余。宝暦初年の「八幡・寺林通御代官所惣高」によれば,村高1,108石余,うち伝馬高867石余・金目高25石余・給所高212石余(平沢清助86石余・門屋助右衛門70石余・花輪七右衛門51石余・鹿討六兵衛3石余)・八幡別当領3石余(花巻市史1)。「邦内郷村志」では,家数81,集落別では元村71・島岡10,馬数113。「本枝村付並位付」によれば,位付は上の中,家数87,集落別内訳は元村74・島岡13。安政4年の検地では,高は田981石余・畑151石余,反別は田80町3反余・畑17町8反余,家数106(稗貫郡打直御検地名寄御帳/石鳥谷町史上)。鎮守八幡神社を永禄年間新堀村より勧請したのは,北上川洪水のたびに,郡主の祭礼執行が不可能のためという。この鎮守は神主持ちであり,社宮の前には馬場・射的場の施設があり,中世以来郡郷の祭祀場として知られ,盛岡藩主から別当領3石余の殊遇を受けた(安政4年八幡宮絵図・元和5年南部利直禰き赦免状/石鳥谷町史下)。寺院に光林寺末の島岡山東養寺があった(寺林道場末寺由緒書)。廃絶したのはいつの頃か不明である。河岸段丘縁辺を南北に通ずる奥州街道筋に元村を形成し(町場となっていたと思われる),段丘下の平地に島岡の集落がある。北上川に赤川渡しがあり,対岸の新堀村を経て大迫往還を形成する。寺子屋の師匠として田中兵衛の名が知られる(八幡村郷土教育資料)。産物として北上川桜淵の鮒と片栗がある(文政4年南部盛岡藩御領分産物書上帳/石鳥谷町史上)。寛政元年には酒屋1軒があった(藩日記/県史5)。江戸期から開田の進められた北上川西部では,葛丸川が最も重要な用水源となっていたが,同川は流路が短く水量が少ないため,旱天には深刻な水不足をもたらした。この用水は大瀬川村の通称一の留で上堰・下堰に分かれ,下堰が当村と中寺林・南寺林および大瀬川・北寺林の各一部,上堰が大瀬川・北寺林の各一部と好地・赤石・片寄の各村と関係していたが,下堰側と上堰側が一の留で200年にわたって争いを繰り返した。嘉永6年の大旱魃に際しては石高に応じた分水を申請して許可され,当村分として1,000石が認められ,その用水掛の多くを占めている(八幡村誌)。明治元年松代藩取締,以後盛岡藩,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同7年字堂前に民家を借用して八幡学校を設立,教員数1,生徒数は男47・女35(石鳥谷町史下)。同9年の村の幅員は東西約14町・南北約24町,税地は田110町余・畑85町余・宅地18町余など計243町余,戸数136・人口694(男367・女327),馬113,八幡学校の生徒数78(男46・女32),職業別戸数は農業120・工業6・商業2・雑業7,物産は馬・米・大麦・小麦・大豆・蕎麦・粟(管轄地誌)。同18年八幡小学校は寺林小学校を合併する(石鳥谷町史下)。同22年八幡村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7254609