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稗貫郡


古くから鳥谷ケ崎城にあって当郡を領した稗貫氏は,天正18年小田原の陣への不参によって豊臣秀吉に領地を没収され,当郡は南部氏領(盛岡藩領)となった。鳥谷ケ崎城は同19年花巻城と改められたといわれ,当郡が伊達氏領(仙台藩領)と境を接する要地であったことから,花巻城代(花巻郡代とも称される)には家臣北秀愛が選任された(花巻市史1)。慶長3年の秀愛の死後,重臣で南部信直の信任厚い,秀愛の父北信愛が同城代となった(同前)。同5年南部利直の最上出陣中,和賀郡に和賀氏の再興を図って和賀忠親が挙兵し,信愛は和賀方面や当郡各所に花巻城の兵を派したが,残った少数の守る花巻城が忠親らの兵によって襲撃された(同前)。信愛らは少数でこれを防ぎ和賀方面から引き返した養子北十左衛門ら諸方からの援兵によって和賀氏の兵を破り,最上から帰還した利直は翌年和賀郡岩崎城に拠った忠親を滅ぼした(同前)。北氏は8,000石を給されて,和賀郡と当郡の北上西部を統治し(県史5),文禄年間頃から四日町・里川口町・一日市【ひといち】町の花巻城下の建設も行った(花巻市史1)。慶長18年信愛の死後,利直の子,南部政直が花巻城主とされて,和賀郡と当郡のうち2万石を治め,同城に付属する花巻侍も編成された(県史5)。しかし,政直は早くも寛永元年には没し,その2万石の地は家老石井善太夫によって治められたが,同4年には善太夫も京都に没して以後は,藩の重臣が花巻城代として任じられるようになった(同前)。花巻城代は和賀郡と当郡の8代官を統括支配し,その権限も強いものがあった(同前)。当郡の村々は,八幡・寺林・万丁目・二子・高木・安俵【あひよう】・大迫【おおはさま】の各通に属し,八幡・寺林通代官所,万丁目・二子通代官所,高木・安俵代官所が花巻城下に,大迫通代官所が大迫村にあった。村数・石高は,「正保郷村帳」52か村・1万2,867石余(田1万1,291石余・畑1,576石余),「貞享高辻帳」52か村・1万5,112石余,「邦内郷村志」68か村・4万6,830石余,「天保郷帳」52か村・4万2,447石余,「安政高辻帳」52か村・3万4,072石余,「旧高旧領」68か村・5万1,689石余。「邦内郷村志」によると,人数2万3,471(男1万3,174・女1万297),馬6,488。「本枝村付並位付」によれば村数67。天保8年「御領分中一村限御蔵給所惣高書抜帳」では石高4万6,012石余。武士や宗教関係を除く農民・町民の人口は,天和3年2万1,820(男1万1,826・女9,994)でほかに花巻城下4,654(男2,516・女2,138),元禄5年2万9,957(男1万6,327・女1万3,630),正徳2年2万4,362(男1万3,476・女1万886)でほかに花巻城下5,261(男2,915・女2,346),宝暦2年2万4,399(男1万3,725・女1万674)でほかに花巻城下4,513(男2,499・女2,014),寛政2年2万1,541(男1万1,328・女1万213)でほかに花巻城下4,586(男2,707・女1,879),文化13年2万6,325(男1万4,205・女1万2,120),天保11年2万6,302(男1万4,187・女1万2,115)である(県史5)。当郡は酒造り出かせぎで日本の三大杜氏として有名な南部杜氏の出身地でもある。一関・仙台方面への出かせぎが多く「南部渡り職人」と呼ばれた杜氏は,米どころのこの地方の農民が冬季間の労働力の余剰(失業状態)を有効に生かすことと結び付いたものと考えられる。江戸中期には,猿ケ石川の鮎,花巻照井沼の田螺,花巻の片栗,湯口村の白土などが名産として知られる(花巻市史1)。「奥々風土記」によれば,台温泉・鉛温泉はともに諸病に効験があるといわれて多くの人々が入浴に訪れるという。同書に見える当郡の産物は,かたくりの粉・松皮紙・畳表・傘・瀬戸焼物・木地挽物・起炭・おこし・串柿・蒟蒻・胡麻・百合根・赤人参・午房・根芹・紅花・藍・絹糸・麻糸・太布・木綿など。郡内には奥州街道のほか,盛岡城下から当郡大迫を経て遠野・釜石に通ずる釜石街道などが通る。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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