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盛岡城下(近世)


 江戸期の盛岡藩の城下町名。岩手郡のうち。天正20年盛岡藩領内諸城破却に際して,当地にあった不来方城が岩手郡内では唯一存置とされていることから,天正20年頃にはすでに当地を藩主の居所とする構想があったと推定される。不来方城址を中心とする藩主の居城としての新たな盛岡城は,慶長年間中頃までに一応完成し,盛岡城を中心として城下が仁王村・志家村・中野村・加賀野村・山岸村・三割村・上田村・向中野村の各一部に建設された。町割が開始されたのは慶長4年頃であり,同14年頃には一応整ったといわれる(県史5)。町割は重臣北信愛の意見を用いて五の字割とされた(盛岡砂子)。はじめ城を中心に高禄の家臣の屋敷が設けられ,比較的高台の上田村の方に足軽の居住地を設置,上田組町が外村に通ずる城下として最も早くでき上った(盛岡市史)。武家屋敷地の地割が始められたのは元和3年といわれ,それまでは武家屋敷地と町人地が錯綜していたという(盛岡砂子)。こうして城下は次第に整備され,城の内濠の北側にさらに濠をめぐらして,その間に一門や高禄の武家屋敷を配置し,その外側に武士や町人を居住させて外濠がめぐらされた。また,城下の出入口に当たる付近には足軽・同心が居住させられ,主要街道の入口には惣門を設けて夜間の通行を禁じ,枡形が築かれて出入する人々を改めた。町人地で最初に町が形成されたのは京町(本町)・田町(三戸町)・六日町で(盛岡砂子),慶安4年には町人町の盛岡二十三町が成立したという(盛岡市史)。この盛岡二十三町とは盛岡藩が盛岡城下町として幕府に届け出た町で,仙北町・川原町・石町(穀町)・馬町・六日町・十三日町・新町(呉服町)・八幡町・肴町・葺手町・紺屋町・鍛冶町・紙町・本町・八日町・大工町・油町・寺町(花屋町)・四ツ屋町・三戸町・長町・材木町・久慈町(茅町)のこととされるが(盛岡市史),「邦内郷村志」にはこのうち四ツ屋町が見えず,鉈屋【なたや】町が記されている。同書によると,天明8年盛岡二十三町の総家数1,940・総人数1万3,070(男7,328・女6,042)。町人地と武家屋敷地の区別を明確にするため文化9年には町人地の町名を,同10年には武家屋敷地の小路名の変更を実施し,武家屋敷地は原則として町名を廃して小路を付して呼ばれるようになり,組町を付して呼ばれる足軽・同心の居住地も拡張されるなどした(盛岡市史)。城下は武家屋敷地をも含めて,城を中心に城西・城東・城北の3地区と北上川以南の河南地区とから成っており,さらに北上川南岸で西側の下厨川【しもくりやがわ】村内に形成された町場を河西地区としていた(盛岡砂子)。江戸後期の町名・小路名には表大沢河原小路(大沢河原表)・裏大沢河原小路(大沢河原裏)・新築地・仁王小路・仁王新小路・材木町・茅町・梨木町・山伏小路・長町・新山小路・平山小路・帷子小路・三戸町・日影門外小路・四ツ家町・八日町・本町・大工町・花屋町・油町・谷小路・紙町・内加賀野小路・外加賀野小路・外加賀野裏小路・紺屋町・鍛冶町・葺手町・八幡町・餌差小路・生姜町・肴町・川原町・新穀町・穀町・呉服町・十三日町・鷹匠小路・六日町・馬場小路・川原小路・上衆小路・馬町・大清水小路・万日・鉈屋町・神子田町・上小路町・山岸町・下小路・上田組町・上田小路・上田与力小路・赤川・青物町・仙北町・仙北町組町がある(盛岡市史)。城下の人口は,宝永8年1万5,218,元文5年1万6,191,宝暦2年1万6,221,同5年1万6,909,同10年1万4,661,安永9年1万6,238,天明9年1万6,338,寛政7年1万7,917,享和3年1万8,824,天保5年1万9,505,同11年1万7,966(同前)。延宝8年の職人数は,大工189・木挽53・桶屋34・畳刺33・屋根屋30・瓦師10・檜物師8・舟大工5・鋳物師など(同前)。城下の総鎮守盛岡八幡宮は延宝年間に八幡山に建立された。城下の整備に際しては,南部氏ゆかりの諸寺院が三戸城下から移り,寺院街が南の寺の下,北の新庄村のうち(北山寺院街)に形成された。城下中央を中津川が流れ,城の南で同川と雫石川が北上川に合流しており,中津川には慶長14年上ノ橋,同16年中ノ橋,同17年下ノ橋が架されて城東と城西を結ぶ交通路が確立され,北上川には下厨川村の新田(出)町と茅町の間の夕顔瀬にはじめ舟橋,次いで土橋が築かれたが,洪水のためたびたび流失し,明和2年中瀬に島を築いて架した夕顔瀬橋によってようやく安定したという。奥州街道が通るほか,当地からは鹿角街道・宮古街道など領内各所への道があり,その里程の基準となる元標は鍛冶町に置かれていた(盛岡砂子)。当城下河岸が北上川水上交通の基点とされたのは慶長10年前後のことといわれ(県史5),川原町の新山河岸は明治23年の日本鉄道(現国鉄東北本線)開通まで出入の船で賑い,川原町・穀町・六日町・呉服町・紺屋町・鍛冶町・紙町・本町・八日町に商店街が発達する契機ともなった(盛岡市史)。各町に町検断が置かれ,町検断の上に検断頭ともいうべき6人の六検断がいて,盛岡町奉行(天和元年以後寺社奉行を兼務して寺社町奉行と称したという)の支配の下で日常の町政が運営された(県史5)。通常六検断は中津川を挟んで向い町(河南)方面に3人,河北に3人が常置され,城下の名望家が世襲的にその任に当たった(県史5)。天正20年の領内支城の破却と当城下の建設進行による武士の集住などに伴う城下経済育成のため,藩は三戸城下から武士とともに移住して三戸町に店舗を開設した商人などに種々の特権を与えてその保護に当たった。また,領外からも商人を誘致し,伊勢・美濃や関東地方などから豪商が入って来たが,特に琵琶湖西岸から移って来た近江商人は寛文年間頃までに当地に居を置くようになり,元禄年間以後は城下商人の中でも中心的存在となった(同前)。この近江商人達の中でも井筒屋は当城下を中心とした商圏の中枢に位置し,幕末には藩財政上不可欠の存在となり,明治維新後三井などと拮抗する大財閥の小野組を構成するに至った(同前)。天明8年の当城下は「聞しにまさる豪家・商家も数多見え,案内のものの申上しは,市中千七百余軒となれ共,是は年年より御巡見使へ申上る定りの事にして,実は三千軒余」(東遊雑記)であったといわれ,その繁栄が察せられる。当城下で北上川に中津川・雫石川が合流するところから,洪水による被害をたびたび受け,延宝3年には北上川の流路を変える工事が完成し,被害の軽減と城下町拡大に役立ったが,その後も中津川・北上川の洪水では橋が流されるなど水害に悩まされた。城下で500軒以上を焼失した火災は,享保14年・寛延元年・安永7年・文化3年・元治2年の5回を数え,中でも享保14年の大火では約14時間に武家屋敷など407軒,町家1,340軒・寺社37を焼失している(盛岡市史)。明治元年10月維新政府軍が盛岡城入城を果たし,翌11月盛岡城に奥羽鎮撫総督府所管の鎮撫行政司が置かれ,同2年1月まで城地は秋田藩によって管理された(県史5)。同年10月には再び盛岡藩が復活し,その藩庁が城内に設置され,石巻鎮台盛岡分営も駐屯していた(盛岡市史)。同4年城下各町はすべて各々仁王村・志家村・東中野村・加賀野村・山岸村・三割村・上田村・仙北町村へ字地として編入された。同年盛岡県が発足し,県庁は城内から内丸(仁王村の字地)にあったもと南部邸の御新丸御殿(広小路御殿)に移され,盛岡分営も翌年に閉鎖解隊とされることが決められ,同5年以後盛岡城は陸軍省所管となり,政庁としての機能を失った。なお,明治4年旧外濠の内部(内丸)に三戸町・帷子小路・平山小路・新山小路・大仁王小路・新築地を加えた地域は「庁下」と呼ばれることもあった(県庁日録)。また,同8年旧城下の市街地を盛岡と総称し,城下各町は盛岡町を上に付して盛岡町材木町などと呼ぶようになり(盛岡市史),同17年各々の所属する村名を付して仁王村材木町などと呼ぶように定められた。同18年1月仁王村外五ケ村(上田・志家・東中野・加賀野・三割)役場設置と同時に盛岡町の名称は廃された。明治17年の大火では家屋1,309戸のほか土蔵56・寺8・神社16・学校4を焼失した。同22年市制町村制をもって旧盛岡城下は盛岡市の一部となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7255058