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石巻村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。牡鹿郡陸方のうち。元和9年から寛永3年にわたり川村孫兵衛重吉の北上川治水工事が完成し,石巻港は牡鹿湊の名に変わるとともに,村としてもこの名で呼ばれるようになった。「伊達家文書」寛永5年2月28日付桑原豊後以下宛伊達政宗黒印状は「鮭のうほ(魚)役」を「横川,石の巻,かみは金ケ崎をきりて,引あみながしの役,前々の如くたるべく候」と申し付けている。鮭の魚役はいうまでもなく北上川をさかのぼる鮭漁についてのものである。金ケ崎(岩手県胆沢【いさわ】郡)まで北上川を通ずるようになっている北上河口港石巻の存在を知るに充分である。そして「南部藩家老席日録雑書」によれば,正保5年7月10日条には「川船作らせ候。石巻へ御米積下し船壱艘,今日出来の由,鬼柳弥吉披露なり」とあり,南部領より北上川を廻米する川船が石巻へ下っていることがわかる。「伊達家文書」慶安元年4月19日付の笹町新左衛門宛伊達忠宗領知黒印状に「小鹿郡湊村・桃生郡長尾村・脇谷村,右三ケ村に於て八十七貫九百文,此の度加増として小苅(鹿)郡石巻村・蛇田村・門脇村,弐貫百弐拾壱文,都合九拾貫弐拾壱の所,之を下し行い訖んぬ」とあり,寛永検地を経て石巻村の存在も確かになってきている。松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅に松島から平泉を志して,元禄2年5月12日(実は11日)「終【つい】に路【みち】ふみたがえて石の巻という湊に出づ。こがね花咲くとよみて奉りたる金花山海上に見わたし,数百の廻船入江につどい,人家地をあらそいて竈【かまど】の煙立ちつづけたり。思いかけず斯【かか】る所にも来れる哉【かな】」と書き,港町として繁栄している石巻を旅人として確認している。「元禄郷帳」には石巻村宿とあり,宿は木町・中町・横町・裏町で構成されていた。仙台藩蔵入地・給地。西廻り海運の酒田港と並ぶ東廻り海運第一の港町として繁栄し,藩経済の中心となった。享保年間に鋳銭場が設置され,寛永通宝が断続的に幕末まで鋳造されていた(石巻市史)。元禄年間の村高242石余,人口2,377(牡鹿郡万御改書上)。「安永風土記」によると村高は田代14貫余・畑代12貫余で計26貫余(うち蔵入21貫余・給地4貫余),人頭は寛永検地の竿答百姓36から224に増加。家数724(うち借家500・御仮屋1),人数2,969,馬29。舟は天当船21・五太木船16・小船3・颯波舟3・大伝馬舟11・小伝馬舟5・艜舟2で計61。当村は江戸廻米港であるため,石巻川口役3・同手代2・船賦役2~3・代官2が配置され,その下に大肝煎が置かれた。また当村には,南部・八戸【はちのへ】藩の廻米蔵もあり,各藩の役所が設けられた。商品流通統制のために,五十集【いさば】問屋・御国産問屋なども置かれた。神社は村鎮守羽黒社・鳥屋神社,寺は真言宗海石山寿福寺,曹洞宗菩提山永岩寺,法華宗法音山久円寺,修験は羽黒派五大院・本山派明宝院・本山派常覚院・本山派大行院(安永風土記)。「天保郷帳」の村高579石余。明治2年石巻商社発足,同6年第90小学区第八十一番小学校開校(現石巻小学校),同9年第一国立銀行石巻出張所開設,同15年湊村と結ぶ内海橋架設。明治元年高崎藩取締地,以後,桃生【ものう】県・石巻県・登米【とめ】県・仙台県を経て,同5年宮城県に所属。同22年牡鹿郡石巻町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7255357