鳥沢村(近世)

江戸期~明治8年の村名鳥沢川の最上流に位置する山間の集落北は岩手県に接する地名の由来について,戦国期三迫地方を領有した葛西の臣,岩ケ崎館主富沢日向と関係が深く「とみざわ」が「とりさわ」と訛ったものとする説がある(宮城県地名考)また土地の伝説に昔,五観山と称する沢山があり,雉子がよく棲息,味よく外観も他と異なり頭の周りに白い珠数を掛けたような斑があり村人,珠数掛雉子と称したこのように雉子のよく育つところより後世鳥沢と称したとある(栗原郡誌)戦国期は葛西領であったと考えられ,前述の富沢氏,同じく葛西氏の臣樋渡典膳の居館と伝えられる「樋渡館跡」がある(安永風土記)栗原郡三迫のうち葛西氏滅亡後,伊達領となり漸次開発が進み,寛永18年領内総検地の際の人頭18であったが安永6年には109に増加,安永年間には村高110貫余・家数109・人口626・馬118山間地のため灌漑用の堤が多く108を数えている(安永風土記)領主は岩ケ崎城主,御一家の中村日向三迫大肝煎管轄「元禄郷帳」の村高887石余,「天保郷帳」では1,104石余鎮守は不動堂,寺ははじめ天台宗であったが大永年間野火によって焼失,慶長10年中興に際し改宗したと伝えられる(曹洞宗養昌寺書出)曹洞宗太源派高月山養昌寺がある明治元年宇都宮藩取締地,以後,栗原県・胆沢【いさわ】県・一関県・水沢県・磐井【いわい】県に所属同8年里谷村・深谷村2か村と合併,栗原郡鳥谷村の一部となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7256962 |