100辞書・辞典一括検索

JLogos

25

村田郷(近世)


 江戸期~明治22年の村名。柴田郡三十五邑の1つ(封内風土記)。柴田北方大肝煎の所管。仙台藩成立の頃,一時藩の直轄地となり,後藤三郎右衛門が村田城城代を勤めていたが,慶長8年角田の石川昭光が隠居分3,000石を賜り,同10年村田に移り,またほどなく角田へもどっている(石川氏一千年史)。慶長18年政宗の七男宗高【むねたか】が村田館主となったが,寛永3年病没。宗高が在世中,元和9年刈田【かつた】岳が大噴火し,これを鎮めるため18歳の若さで危険を冒して山頂に登り,同行した中国人王翼【おうよく】と山神の怒りを鎮める祈祷をした話は,領民を思う名君として今日でも地方民の敬仰を集めている。この後2年ほど蔵入地となり,寛永6年奥山常良【つねよし】が知行高250貫文で館主となったが,寛文元年所領替えになった。代わって一門の田村氏(のちの一関藩主)の知行地となり(伊達治家記録),延宝9年には着坐大松沢甚右衛門が,その後貞享元年,着坐芝田常春が館主となり当郷を支配した。この芝田氏は子孫相承け,慶応2年加美郡谷地森【やちもり】に移され,片平敬教【のりやす】が入部し幕末に及んだ。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに878石余,「安永風土記」では村高113貫余(田代85貫余・畑代27貫余),このうち112貫余が給人領で,残りが蔵入地。寛永19年惣検地の際の百姓人頭110人,安永年間には197人に増加(町住居118・村住居79),家数212軒(うち名子1・借屋14)・百姓人口984・馬数57。村鎮守は字七小路にある白鳥明神社。同社の境内にある藤の古木「蛇藤」やツキノキ・イチョウの大樹は樹齢約1,000年に及ぶと推定されており,ともに町の文化財となっている。寺に曹洞宗竜島院・真言宗定竜寺・浄土真宗願勝寺・黄檗宗正眼庵があり,このうち,定竜寺と正眼庵は明治初年廃寺となった。肝煎は本町屋敷の大沼新左衛門家が代々勤めた。村田郷の町場は宿駅になっており,山形・仙台・大河原の3方面への街道の要地であった。町は本町【もとまち】・荒町・南町の3町。安永年間の検断は本町の儀兵衛,荒町の十郎左衛門が記録されており,2人で勤めたのであろう。特に紅花【べにばな】の集荷が盛んで大沼・山田などの特定商人が関西や江戸と取引きし,「一六の市」と称し毎月6回定期の市が立った。町は柴田郡行政の一中心でもあり,北方大肝煎もここにいた。明治元年新南部氏領,以後,白石【しろいし】県・角田【かくだ】県を経て,同9年宮城県に所属。同18年の戸数271・人口1,640(柴田郡地誌)。同22年柴田郡村田村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7257699