分浜(近世)

江戸期~明治22年の村名。桃生郡南方【みなみかた】代官区二十四村のうち。十五浜【じゆうごはま】の中の1漁村。1611年11月すなわち慶長16年10月,来日したイスパニア特派大使セバスチャン・ビスカイノは,沿岸測量のため雄勝港に入港,水浜と分浜が港の近くにあるのを知り,分浜を「サント・ドミンゴ」と命名して,これらの村は住民の数も多く糧食も豊富だとしている(金銀島探険報告)。寛永18年の村高21石余(宮城県史)。元禄11年牡鹿【おしか】郡指ケ浜【さしがはま】との境界を協定(雄勝町青木春雄所蔵絵図)。明和年間の戸口73。神明宮と弁財天堂があり,寺に高源院があった。塩田があり,釜1区で塩を煮た(封内風土記)。天保5年の村高27石余(天保郷帳)。飢饉前の戸数64が嘉永3年には28戸に激減している。同年の村高は26石余。牛8頭と船15隻を所有し,特産物はタコ・アワビ・ホヤ。御林は4か銘1万5,000坪余,村の杉林が5か所あった。修験に明照院があり,神社に愛宕【あたご】社ほか3社があった。寺は高源院(安永風土記)。江戸後期頃からカツオ一本釣り漁法が発達,和船型の四板船【よいたぶね】に乗員10数人が乗り組んで8挺櫓ないし10挺櫓で沖に出た。幕末にはカツオ節が量産化している(雄勝町史)。漁家の中で秋山氏・青木氏は海運業と商業を兼ね,遠く銚子(千葉県)・江戸方面と交易した。秋山惣兵衛は佐原から松島遊覧や測量に出た伊能忠敬と旅程を共にし,仙台での用務の便を図っている(測量日記)。青木氏は嘉永・安政の頃江戸深川に支店を置き,泰寿丸・咸亨丸・正寿丸等の親船数隻を就航させてカツオ節・塩カツオ・魚肥等を運送している(雄勝町青木家文書)。泰寿丸は500石積み級の和船で,気仙【けせん】地方の船大工が建造。275両を要したという。当時の米相場は1両当たり1石2斗8升であった(造船入料覚帳/雄勝町青木家文書)。明治元年高崎藩取締地,以後,桃生県・石巻県・登米【とめ】県・仙台県を経て,同5年宮城県に所属。同3年の村高27石余(陸前国牡鹿郡桃生郡本吉郡郷村高帳/石巻市図書館蔵)。この頃神風契約講があり,昭和年代まで継続している(雄勝町史)。同21年の戸数31・人口243。同22年桃生郡十五浜村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7257890 |





