鷹巣村(近世)

江戸期~明治33年の村名。出羽国秋田郡北比内【きたひない】のうち。秋田藩領。元和3年6月晦日藩家老梅津憲忠から大館給人羽生縫殿丞に宛てた指紙に,「房沢村之内鷹巣村」とあり(大館佐竹文書),房沢【ぼうざわ】(坊沢)村の枝郷ながらすでに鷹巣村が存在し,開発の対象地であったことがわかる。「正保国絵図」には郷形不記載。慶安年中に大館城代家老小山縫殿丞と当村草分けとなった斎藤伊勢らとの新関開削による新田開発が成功。家数30・村高269石余を確認。寛文年中には家数95・村高886石余という(郷土誌)。こうして延宝7年打直検地のとき,村高1,004石余の鷹巣新田村として房沢村から独立。「元禄7郡絵図」にも鷹巣新田村687石余として図示。その後新田の字を正式に削り,鷹巣村として,「享保黒印高帳」には村高803石余・当高562石余(うち本田並519・新田43)と認定。耕地はなお不安定であった。この間,寛文4年頃に当地方の交通上の要地として当村に,5の日の三斎市開催が許可されたといい,宝永2年再度藩から確認された市札があり,18世紀中期以降から充実し,市場町としてもにぎわう(成田家文書など)。「寛政村附帳」では当高730石余(うち蔵分90・給分639)と記載。大館給人黒沢・中島・江幡氏らの10~40石の給分をはじめ,10石未満の給分が当村に錯綜(大館佐竹文書)。戸数は「享保郡邑記」で95軒,「秋田風土記」で160軒。安政期に184軒・757人・馬220頭(郷村史略)。文化2年肝煎成田氏が郷備倉を建設し講じた飢饉対策は有名。当初は親郷坊沢村の寄郷であったが,文政6年以後は坊沢村に代わって親郷となる。親郷肝煎成田兵左衛門。村鎮守八幡社のほか,神明社・愛宕社をまつり,曹洞宗恕盛山浄運寺(大館町宗福寺末寺)・当山派修験源長院がある。「天保郷帳」は562石余。嘉永5年渡部斧松を小鹿島【おがしま】から招聘して鷹巣新掘替工事を施行。画期的な治水工事となった。明治5年の戸数・人口は218戸・1,150人。同10年栄【さかえ】村と組み,鷹巣村ほか1か村組合事務所を鷹巣村に設置。同11年北秋田郡に所属。翌12年北秋田郡役所が置かれる。初代郡長川崎胖。同年村出身の県会議員成田直衛が初代議長に選出されたことなどによるものとされている(鷹巣郷土誌)。同17年から22年まで鷹巣村栄村組合戸長役場を組織。同22年の町村制施行後も単独の自治体として存続。当時の戸数269・人口1,522。同22年近隣5か村(綴子【つづれこ】・坊沢【ぼうざわ】・栄・七座【ななくら】・沢口)と組合公立病院を設立(大正2年廃止)。同31年鷹巣渡船場に鷹巣橋架橋。同33年鷹巣町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7259852 |





