湯沢町(近世)

江戸期~明治22年の町名。湯沢城廻町ともいう。雄勝郡のうち。秋田藩領。慶長8年佐竹一門の南家義種を湯沢城主として配置。元和6年湯沢城破却後,佐竹南家は所預【ところあずかり】と称し,内廓【うちぐるわ】町に東西・南北とも100間の館(淡路屋敷)を営んだ。南家の当主が恒例として淡路守に任ぜられたことによる。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ともに,湯沢町1,566石と図示。「宝永郷村帳」で湯沢城廻町,享保15年「御用留書」で湯沢町とある。南館新町同上【うわ】町・同下【した】町・同荒町・内館町は東南部の丘麓を占め,佐竹本家の給人が住み,内廓(内廻輪)【うちぐるわ】・荒町(北荒町)・根小屋【ねごや】町・大工町・金池【かないけ】町・新町は東北部にあって佐竹南家の給人が住み,いずれも侍町(内町【うちまち】)を称する。のちに吹張【ふつぱり】町の西に御囲地【おかち】町が足軽町として成立。町人町(外町【とまち】)として羽州街道沿いに吹張町・田町・大町・柳町・前森町,西馬音内【にしもない】街道沿いに平清町の6町があり,戸数計468軒。その他枝郷として中野々目【なかののめ】・鐘打沢【かねうちざわ】(鉦打沢山屋)・大島の3か村があったが,享保年中には前2か村は村居なく,大島村15軒は正保4年よりの新田村(享保郡邑記)とある。鉦打沢山屋(山谷)村は天明年間復活したらしい(市史)。町のほぼ中央を貫流する湯沢大堰は慶長18年開削の伝承がある。関口村で雄物【おもの】川の水を引き湯沢など4か村の250町余の田地を灌漑。「享保黒印高帳」では町の高2,306石余・当高2,575石余(うち本田1,964・本田並494・新田117)と認定。明和2年打直し検地で当高1,601石余(うち本田1,294・本田並279・新田28),「寛政村附帳」で当高1,609石余(うち蔵分1,385・給分224),「秋田風土記」でも元2,575石余が今1,366石余とある。「天保郷帳」は2,575石余であるが,天保9年「巡見使答書覚」では当高1,612石余(うち蔵分1,380・給分232)とあり,江戸期を通じて当高1,600石余が実数であろう。また町数も前記のほか,内町【うちまち】として花見沢・弐軒町・袋町・細小路・杉小路・片原町が増え,外町【とまち】も北・南の両新地ができたほかに浦(裏)町・横町の名もある。全体の戸数1,000戸余・人口5,000人余と推定される。九斎市が開かれるなど商工業も漸次盛んとなり,特産の酒造業は文政4年に12軒・360石の請高がある。18世紀には親郷岩崎村の寄郷であったが,文政年間に岩崎村に代わって寄郷16か村の親郷となる。鎮守は侍町が神明社,町人町は愛宕神社。他に南家氏神の八幡神社がある。寺院は南家祈願所の真言宗八義山広大寺,同じく菩提所の曹洞宗揚沢山清涼寺など16か寺,修験は泉光院・正蔵院・養成院・蓮昌院・湯養院・永禅院が興亡した。明治7年に外町,同10年に内町がそれぞれ整理統合して,近代の町制を施行。同9年の新検改租対象地は,田288町・畑74町・山林原野848町歩余,戸数1,332・人口6,202(郡村誌)。同22年町村制施行後も,単独で存続。当時の町勢は,田307町・畑76町・山林原野875町余,戸数1,462・人口6,727。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7261405 |





