大浦(中世)

戦国期に見える地名田川郡のうち尾浦とも書く元亀元年と推定される9月晦日の小笠原氏隆書状(本間美術館所蔵文書/県史15上)に「竹次(竹井時友)其外土佐林之面々昨夜亥刻大浦を罷除,横山之地馳入候」とあるのが初見本文書によれば,尾浦(大浦)城主武藤義氏と藤島城主土佐林禅棟の関係が悪化するなかで,上杉謙信の調停により和解が進み,土佐林禅棟自ら元亀元年9月29日尾浦城に伺候して,対立は解決するかにみえたしかし,同夜土佐林禅棟・竹井時友らは疑心暗鬼から流言を信じ,急ぎ尾浦城を退去して横山城に遁走したので,これを留めようとする武藤軍との間に戦闘が起こり,近隣の村々に放火するなどの不測の事件が勃発したことがわかる天文元年武藤氏は砂越氏の攻撃により大宝寺城から当地に本拠を移したこれ以後尾浦城は庄内の中心的役割を果たした尾浦城は,東・南・北の三方を菱津川が流れて自然の水濠となり,西には空壕を掘って山続きを切断,現在の上池・下池は湿地帯をなしてその防衛を安全にし,また裏山づたいに万一の為に設けられた高楯山の楯や加茂湊に通じた理想的な要害であった(鶴岡市郷土資料館,郷政録)武藤義氏は「極悪無道」と酷評された強引な施策で庄内の統一を果たしたが,天正11年義光と通謀した近臣前森蔵人らの不意討を受け自刃した続いて義氏の跡を継いだ義興も天正15年10月最上義光の援軍と呼応した東禅寺筑前守らの反抗に遭い大敗して自殺した義興の養子となっていた越後本庄繁長の次男義勝は越後にのがれたため,庄内は最上義光の支配下となった天正16年頃と推定される2月6日の最上義光書状(今井文書/県史15上)に「随而帰路砌□も直ニ大浦へ被指越,玄蕃ニ詞をも懸られ候由承候而大悦存候」とあり,尾浦城には最上氏の重臣中山光直が居城し,新田目城主今井氏が最上氏に従属していたことが知られる翌天正16年越後本庄繁長の反攻が開始され,同年8月十五里ケ原の戦で越後勢の勝利に帰し,庄内は上杉領国に編入された天正16年と推定される9月19日の岩屋朝政書状写(秋田藩家蔵文書/県史15上)に「従大浦由利中惣立之儀被仰付候,先月廿六日子ニ候孫次郎罷立候」とあり,秋田由利郡の諸氏も最上氏の援軍として庄内に出兵したことがうかがえる天正17年と推定される6月2日の来次氏秀書状写(阿部正己資料所収文書/同前)に「最(最上)之衆,又地之者老若男女共一人も不洩被加成敗候」と見え,庄内の最上勢は壊滅的な打撃をうけた天正16年と推定される10月11日付の最上義光書状(三坂文書/同前)によれば,庄内の最上派の諸侍1万余人が最上領に亡命したことを岩城氏の重臣三坂越前守に報じているしかし,天正18年10月太閤検地反対一揆が起こり,翌天正19年9月本庄繁長・武藤義勝父子はその責を問われて失脚し,庄内は改めて上杉景勝に与えられた庄内は重臣直江兼続が支配し,尾浦城には立岩喜兵衛・下次右衛門・松本勝義などが配された関ケ原の戦後の慶長6年,庄内は最上氏の領国となり尾浦城に下秀久が2万石で配されたが,慶長8年には最上義光の命により大山と改称された庄内地方,現在の鶴岡市大字大山に比定される

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7261992 |