100辞書・辞典一括検索

JLogos

34

置賜郡


律令制的郡支配体制の崩壊に伴い,当郡でも中世的所領の形成が見られる。平安後期,「和名抄」に見える屋代郷を中心に屋代荘(現高畠町),同じく宮城郷を中心に成島【なるしま】荘(現米沢市・川西町)が成立し,置賜【おきたま】郷を中心として北条荘(現南陽市)が成立した。屋代荘・成島荘は12世紀には摂関家領の荘園として見えるが(殿暦・台記),その成立は11世紀まで溯るものと思われる。殊に屋代荘は悪左府と称された頼長が父忠実より相伝したもので,頼長の代には,その実質的管理者であった藤原基衡との間で年貢本数の交渉が行われ,当初の布100反・漆1斗・馬2疋が布150反・漆1斗5升・馬3疋に増額されている。その後,保元の乱で当荘は没官され,後院領(皇室領)となるが(兵範記),平泉藤原氏の勢力は当荘を中心に郡全域に扶殖されたと思われる。一方,郡衙の所在地として有力視されつつある道伝(現川西町)の付近,赤井郷,長井郷といった郡西部の地域は,鎌倉・室町期の長井荘の性格およびその荘域から推定すると,国衙領に再編されたと思われる。鎌倉期に入ると当郡の3つの荘園と国衙領は,平泉藤原氏の滅亡に伴いその在地領主権は奪われ,代わって地頭として,鎌倉御家人長井氏が入部した。長井氏は奥羽地方に特徴的にみられるいわば郡地頭のような地位にあり,郡全体は長井荘と呼ばれるようになった。長井氏は本姓大江氏で,当郡も鎌倉幕府の政所執事であった大江広元に与えられ,広元から次男の時広に譲られたものと思われる。夏苅(現高畠町大字夏茂)の古刹資福寺は長井時秀入道西規が鎌倉建長寺(現神奈川県鎌倉市)の大休正念の弟子紹規をして開山せしめたと伝える。当郡が長井荘と呼ばれるようになったのは長井郷に由来するのか,長井氏に由来するのかは定かではないし,鎌倉・室町期の様子を伝える史料もほとんどないが,南北朝期から室町初期にかけて書写された堂森新善光寺大般若経奥書(立石寺文書/県史15下)には「羽州置民郡屋代庄河井郷内堂森新善光寺常経也」(巻525),「出羽長井庄堂森今善光寺堂住物」(巻173),「長井屋代庄河井郷堂森之常住経也」(巻530)などと見える。置民【おいたみ】郡という呼称も失われてはいないが,長井荘が郡域を示す呼称となっていることが知られる。しかし鎌倉中期の弘長3年7月10日の日付のある「教相義釈」の奥書(金沢文庫古文書/県史15上)には「出羽国長井屋代庄八幡宮」と見える。南北朝末期になると,陸奥国伊達郡(現福島県伊達町付近)を本貫とする伊達氏は宗遠の代に至って長井広房の本領である当郡に追攻し,その支配権を奪取した。康暦2年には伊達宗遠は石田左京亮に「出羽国置民郡長井荘鴇谷郷内」の田地を宛行っているが,これは伊達氏の置賜攻略直後のことと伝える(正統世次考/県史15下)。伊達氏の支配下にあった地頭領主の所領は居屋敷(館【たて】)・在家・浮免からなっていた。在家と田地とを結合して田在家とも称し,数十町にも及ぶ規模のものが多かった。浮免は,在家と結合しない田畠を指し,請作者は一定せず土地保有権は未確立であったものと思われる。置賜郡内の地頭領主は伊達氏の麾下に服したとはいえ,たとえば応仁2年7月2日賢良渡置状(国分文書/県史15上)にみられるように,幕府の料所を預かったり,他の大名に所領を宛行われたりしており,伊達氏の完全な被官ではなく,それぞれ自主性を保持した小領主として存在していた。しかし大永2年に陸奥国守護職に任命された稙宗は,守護権を背景に天文4年,棟別銭徴収を目的として,御むねやく御日記を作成し,続いて天文7年の御段銭古帳の作成により,本段銭を確定し,地頭領主のより完璧な被官化に成功した。以後作成された天正12年下長井段銭帳・同13年北条段銭帳・同15年上長井段銭帳では,この本段銭を基本にして賦課されている。また稙宗の代には分国法として有名な「塵芥集」が制定され,伊達氏は着実に領国支配を強化し戦国大名への道を歩んだ。こうした領国体制強化に対する不満と反抗の現れが天文の乱であった。この乱について「正統世次考」は「上下相与(とも)に父子兄弟親戚の際に在り,鋒盾相分れて讐敵を為す」と記しており,稙宗とその長男晴宗の対立は,伊達氏領内の地頭領主の惣領と庶子の対立にも呼応し,熾烈を極めた。しかし天文17年の稙宗隠居により和解が成立すると,晴宗は本拠を米沢城に移した。天文の乱後の,天文22年には晴宗は采地下賜録を作成し,晴宗に背いた地頭領主の所領をことごとく没収して,臣下にその所領を宛行った。また旧領も改めて安堵しており,当郡における支配権の確立とともに伊達氏の戦国大名領国制は一応の完成をみた。伊達氏の当郡に対する支配権が確立していく中で,当郡域は4つの部分に区別され呼称された。すなわち,古代末期からの荘園名である屋代荘・北条荘はそのまま戦国末期まで地域名として使用されたが,成島荘は上長井荘と呼称され,当郡域の西半分に当たる本来国衙領であった部分が下長井荘と呼称された。伊達氏の米沢在城は晴宗・輝宗・政宗と3代にわたり約40年間に及んだが,その間置賜郡は伊達氏の中心的所領であった。伊達政宗は天正17年会津蘆名氏を滅ぼし黒川城(現福島県会津若松市)に入城したが,天正19年豊臣秀吉により政宗は当郡を没収された上,同年9月23日陸奥岩手山城(現宮城県岩手山町)に移され,当郡は蒲生氏郷に与えられた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7262180