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小国村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。田川郡のうち。はじめ上杉氏領,慶長6年最上氏領,元和8年からは庄内藩領。山浜通に属す。枝郷に峠野山村がある。村高は,元和8年の御知行目録および寛永元年の庄内検地高辻では444石余,寛文期の庄内高帳342石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに297石余。文禄3年9月の定納員数目録(旧県史1)によって上杉景勝は大浦(尾浦)・大宝寺・小国三城の在番将士の食俸を定めたが,小国城は「直江抱」(直江兼続支配)として,在番将士には小国因幡・大川三之助・五十嵐次兵衛など羽越国境地帯の名門の流れをくむものが多く,食俸の石高は2,304石余となっている。天明8年の巡見使廻村応答心得(温海町,五十嵐善四郎家文書)によると家数は名子・水呑共を含めて111軒・人数551,漆木3,904,馬30雑駄うち往来勤候馬9,牛11。幕末期の「弐郡詳記」によると免3ツ6分,家数108軒。庄内~越後間の山街道が通る当村は,宿場町としての性格も備えている。元禄15年の村絵図には,道幅4間の通りの両側に家々が約60戸記され,弘化元年藩に提出した文書には,旅籠屋6・茶屋3・木賃宿1が見える。また家並みの南端で小国城のあった楯山麓には関所が設けられている。庄内藩では関所役人として上番人1人,下番人2人を派遣していた(小国城址・小国関址考/山形県民俗・歴史論集3)。関所は明治5年廃止。天明年間の「東西遊記」(生活史料20)には「扨尾国といふ所の前にて大なる峠を登り,夫より下る所あり,甚嶮岨にして下るべき所なし」とある。神社に小国城主や関守の信仰厚い鎮守熊野神社,地内神馬沢【かんばざわ】に小田神社,峠野山村に神明神社,寺院に曹洞宗永淳【ようじん】寺がある。民俗行事に毎年正月17日八幡宮の神事として行われる弓射【ゆみいれ】がある。江戸期には山中5か村(小国・木野俣・温海川・越沢・関川)の弓射として藩領内で名声を得ている。鶴岡県を経て明治9年山形県に所属。明治11年の一覧全図では,反別310町9反余,戸数106・人口579。同年小国小学校の前身開源学校が開校し,同13年には峠野山村に南台学校が開校する。明治11年西田川郡に属し,同22年福栄村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7262191