100辞書・辞典一括検索

JLogos

19

上寺田村(近世)


江戸期~明治9年の村名はじめ遊佐【ゆざ】郡,寛文年間からは飽海【あくみ】郡のうち庄内地方,出羽山地西麓に位置するはじめ上杉氏領,慶長6年最上氏領,元和8年からは庄内藩領荒瀬郷に属す村高は,元和8年の御知行目録では417石余,ほかに苦竹興野村20石余,寛永元年の庄内検地高辻では456石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに321石余正保5年の納方土目録(飽海郡誌)では村高456石余,免5ツ8分,貞享年間の村組付(同前)では村高317石余,家数14軒(うち御役下12軒)明和7年の納方土目録(酒田市,相馬家文書)では村高321石余,免4ツ3分,明和6年の家数21軒,うちにが竹興屋4軒享和3年の御郡中村数家数人高控帳(遊佐町,斎藤家文書)では家数19軒・人数95明治2年の御高家数人数調帳(八幡町,庄司家文書)では家数19軒・人数96神社は皇太神社・八幡神社上寺田・下寺田・上荒田目・下荒田目の4か村が,元文元年平野部から山麓に移転する際の御代官は朝比奈十左衛門・笹此右衛門,御奉行は本多右衛門・万年忠右衛門,御替は伴幸右衛門であった(反故籠)村内の地名には仁右衛門屋敷・嘉右衛門屋敷・助右衛門田など人名に関するものや,天神免・熊野堂前・三光院前など寺社に関するものが多い肝煎は明和7年与兵衛,寛政9年与五内,天保8年池田五吉,慶応3年金助鶴岡県を経て明治9年山形県に所属同年下寺田村ほか2か村と合併して寺田村となる




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7262466