下寺田村(近世)

江戸期~明治9年の村名はじめ遊佐【ゆざ】郡,寛文年間からは飽海【あくみ】郡のうち庄内地方,出羽山地西麓に位置するはじめ上杉氏領,慶長6年最上氏領,元和8年からは庄内藩領荒瀬郷に属す村高は,元和8年の御知行目録では75石余,寛永元年の庄内検地高辻では82石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに223石余正保5年の納方土目録(飽海郡誌)では村高82石余,免6ツ5分明暦2年の検毛帳(同前)では村高82石余,ほかに与吉分137石余明和7年の納方土目録(酒田市,相馬家文書)では村高83石余,免4ツ1分,ほかに枝郷与吉分139石余,免4ツ1分貞享年間の村組付(飽海郡誌)では家数13軒(うち御役下9軒)享保3年の御郡中村数家数人高控帳(遊佐町,斎藤家文書)では家数11軒・人数79明治2年の御高家数人数調帳(八幡町,庄司家文書)では家数11軒・人数58寛文9年の御水帳(八幡町,中央公民館所蔵文書)の名請人は与治右衛門・作助・小次郎・八郎右衛門・弥蔵・与助の6軒である当村はもとは平野部にあったが,元文元年に上寺田村ほか2か村が移転する際に当地に移転した肝煎は明和7年新蔵,寛政9年与五内,天保8年小助,慶応3年弥五右衛門である村内の地名には弥助た・嘉右衛門屋敷など人名に関するものや,寺屋敷・天神免・熊野堂前など寺社に関するものがある鶴岡県を経て明治9年山形県に所属同年上寺田村ほか2か村と合併して寺田村となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7263168 |