鉄砲町①(近世~近代)

江戸期~現在の町名明治17年から一時期山形を冠称江戸期は山形城下のうち山形城下町の最南端で,北は八日町・三日町と接する寛永13年の領地目録(家世実紀)には南鉄砲町とあり,高1,010石余,「寛文印知集」には鉄炮村と見える最上義光が泉州堺から招いた鉄砲鍛冶や鉄砲衆を置き,町割りをしたと伝えられる町内の一部には俗称六椹【むつくぬぎ】町があった元禄年間の屋敷数97軒(うち検断・組頭・筆頭・小走・無役12,蔵屋敷2,役屋敷83),家主84,借家・店借37,人数509,高1,239石余,田38町余・畑19町余,百姓84,辻番所2(山形城下新古銘細記/山形市史資料40)天保13年の村山石高帳の高1,358石余,「旧高旧領」では1,705石余寺院には天台宗宝光院・日蓮宗玄妙寺・曹洞宗法恩寺などがある明治11年の一覧全図では,反別96町5反余,戸数77・人口983明治8年鉄砲町学校設立同22年山形市の町名となる昭和24年の土地区画整理事業実施により一部が末広町・美畑町の各一部となる昭和40年から同51年にかけての住居表示実施により,末広町・美畑町の各一部を編入して1~3丁目が成立し,同時に一部が南三番町・荒楯町籠田【かごた】1~3丁目・南館【みなみだて】1丁目・南栄【なんえい】町1~3丁目・南一番町・南四番町・八日町1~2丁目・三日町1~2丁目・松見町・上町1~5丁目などの各一部となる昭和42年から同49年の土地改良事業により一部が高堂・飯沢・石関・羽黒堂・砂塚・深町などの各一部となるわずかに残る住居表示未実施の鉄砲町も昭和60年度までに住居表示実施予定

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7263797 |





