100辞書・辞典一括検索

JLogos

52

萩野村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。最上郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年からは新庄藩領。北本町郷に属す。村高は「新田本新庄領村鑑」では元和8年1,188石余,元禄13年1,180石余,「天保郷帳」では1,548石余でほかに当村の枝郷として吉沢村234石余・仁田山村122石余・泉田村549石余,「旧高旧領」では2,171石余。当村の北側の岡の上に片平楯があり,安食丹波守が居住したといわれる。安食氏は「清水大蔵大輔分限帳」(戸沢氏以前史料集)に見える安食兵部の一族とみられ,清水氏滅亡後当村に土着して,江戸期には代々庄屋を勤めた。片平楯の東南3丁ばかり離れた山頂に落楯跡があり,10丁ばかり北の小倉山上に小倉楯跡がある。片平楯の西麓には的場・鍛冶屋敷・高屋敷などと呼ばれる地域があったという。当村は片平楯の南麓に計画的に形成された。山麓に並行する土手宿・大宿・小宿の街路と,これに直交する小路が通っており,村の東はずれに真言宗宝蔵院(後に廃寺となる),西はずれに曹洞宗宝積寺,中央に羽黒派修験清光院がある。宝積寺は楯主安食丹波守を開基として天正年間に開かれたという。清光院はもと神室山の別当で常楽坊といい,枝郷土内村にあったと伝えられる。また西には石動神社がある。中世頃は同社付近を通って羽州街道(現国道13号)が南北に通っていた。枝郷仁田山村は,寛文頃は上にた山・下にた山に分かれ,その中間に庄司吉右衛門新田があった。貞享頃の地図には上新田村・下新田村とみえる。枝郷赤坂村は,はじめ荒小屋村と上台村との間の萱野であったが,旧羽州街道(現国道13号)沿いにあたるため人の往来もはげしかった。そのため夜間や降雪時などは特に難儀をしたので,旅人のために上台村から数戸を移住させて立てたといわれている。また一説には,領内12郷から1軒ずつ百姓を集めて立てたともいわれ,初めはこの12軒だけが旧羽州街道沿いに家を構え,それ以外は裏通りにしか家を建てられなかったという。建村の年は泉田村よりも早いことから,寛永元年以前と考えられる(増訂最上郡史)。「新田本新庄領村鑑」にも同様なことが記されており,畑方50石が免除されている。枝郷吉沢村にある吉沢大堤・小堤は江戸初期に開拓された,泉田村の田水を確保するために築かれた堤で領内村々から人足をさし出して修復などにあたった。泉田村も初めは萩野村の枝郷であったが,寛永2年分村した。村の西はずれを貫流している指首野【さすの】川上流に鎌倉堤がある。これは享保初年江戸町人鎌倉屋長右衛門が藩に出願して築いた堤で,中山野の地方開発を目的としていた。この堤はしばしば破損し,充分な水量を確保できなかった。その後宝暦8~9年には萩野・泉田村の鎌倉堤修復計画がたてられて工事が進められたが成功しなかった。安政年間には萩野村庄屋の築堤計画が立てられたが,戊辰戦争によって中断された。「吉村本新庄領村鑑」によれば,当村の反別は明和3年・文化元年ともに175町余うち枝郷126町,年貢高は明和3年2,640俵余うち田方2,365俵余,文化元年2,639俵うち枝郷1,520俵余,家数・人数は寛政6年132軒・801(うち枝郷79軒・537),文化9年149軒・861,文化12年の馬115,枝郷に吉沢・仁田山【にたやま】・朴沢・黒沢・二枚橋・赤坂・中村・土内村がある。明治元年の本郷枝郷別戸数・人数は萩野51・321,吉沢21・145,中村6・47,黒沢13・103,仁田山27・225,二枚橋5・46,土内7・47,赤坂15・107(増訂最上郡史)。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。明治11年の一覧全図では,反別は628町2反余,戸数・人口は159・1,156,萩野学校がある。明治11年最上郡に属す。明治20年萩野学校が萩野尋常小学校となる。同22年泉田村と合併。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7264364