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藤懸(中世)


 戦国期から見える地名。櫛引【くしびき】郡のうち。永禄12年と推定される正月13日の上杉景虎(謙信)書状写(歴代古案所収文書/県史15上)に「扨又大宝寺之手合如何候哉,縦自彼口手合雖無之与,藤懸江進軍,一途可有之様候者,三郎次郎談合有之,早々打寄尤候」と見えるのが初見。永禄11年上杉謙信と村上城(現新潟県村上市)城主本庄繁長が対立し,同年11月謙信は本庄城を攻撃し,武藤義増にも出兵を命じた。本文書は大川長秀と相談し当時本庄氏の属城であった藤懸城に対し攻撃するよう三潴政長に命じたものである。同年のものと推定される正月17日の大川長秀書状(上杉家文書/県史15上)に「仍大宝寺人数浮出之条,去十三,藤懸へ相動手合候」とあり,武藤義増・大川長秀は同年正月13日に藤懸城を攻撃した。本庄繁長は上杉氏の大軍に包囲され,伊達輝宗・蘆名盛氏を通じて和睦を乞うた。同年のものと推定される3月26日の土佐林禅棟書状写(奥州編年史料所収文書/県史15上)によれば,上杉謙信は繁長の長子顕長を人質として春日山城(現新潟県上越市)に在府させることで降伏を許した。藤懸城もこの時降伏したものと思われ,同年4月には本庄氏の反乱はすべて落着した。永禄12年と推定される土佐林時助書状(上杉家文書/県史15上)および同年4月16日の上杉輝虎感状写(雞肋編所収文書/県史15上)によれば,藤懸城攻撃に対する論功行賞として土佐林時助に陣労を謝する直書を与え,土佐林能登守には広泰寺昌派を通じて段子1巻を送っている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7264616