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村山郡(古代~中世)


平安期~戦国期に見える郡名仁和2年11月,最上郡を2郡に分けた(三代実録)この時,現在の最上地方から上山【かみのやま】市に及んでいた広大な最上郡のうち,北半分が村山郡となった貞治3年大般若経写経奥書に「羽州村山郡小田嶋庄垂石郷」,同じく天文24年大般若経写経奥書に「羽州村山郡小田島東根」とあること(羽黒堂文書),永正5年慈恩寺金堂造営勧進状に「羽州村山郡寒河江庄」とあること(慈恩寺本堂文書),永享4年6月24日の日付のある鳥海・月山両神社鐘銘写に「羽州村山郡寒河江八幡宮」とあること(河北町の歴史上),「文永6年7月晦日於羽州村山郡貝塩(貝塩は今の村山市河島にあたる)書之了」と書写の場所を記した金沢文庫論語集解抄の奥書のあること(工藤定雄:金沢文庫と出羽国/金沢文庫研究)以上より推して,村山郡の郡域は,乱【みだれ】川より以北,最上川が寒河江【さがえ】の付近で大きく西へ曲がるその最上川より以北,村山盆地の北部,尾花沢【おばなざわ】盆地・新庄盆地より,最上地方の山々に到る今の東根【ひがしね】市・村山市・寒河江市・西川町・大江町・河北【かほく】町・尾花沢市・大石田町・舟形町・最上町・新庄市・大蔵村・戸沢村・鮭川村・金山【かねやま】町・真室川【まむろがわ】町にわたる村山郡の南部を除いて大半が,山々に囲まれた山里である村山も語源的には群山【むれやま】から来たものであろう「和名抄」に見える郡内の郷は,長岡【ながおか】・村山【むらやま】・大倉【おおくら】・梁田【やなた】・徳有【とくう】・大山【おおやま】の6郷このうち,大山郷は刊本では村山・最上両郡に記すが,種々の徴証からみて最上郡に属するとすべきである刊本は,村山を牟良夜末と訓す郡衙は,東根市大字郡山に置かれたとする説が有力である古代には,郡衙の置かれた村山郡の南部が経済的にも政治的にも開けていた寒河江市南部や河北町寒河江川北方および東根市本郷などからは条里遺構も発見されているまた古墳時代以後の集落も,当郡南部にあたる寒河江市・河北町・東根市・村山市からは,現在のところ58か所も発見されているのに対し,当時の村山郡の北半分からは,わずかに12か所のみ発見されているにとどまっている11世紀中期のいわゆる中世的郡郷制成立期には,「和名抄」に見える長岡郷域を中心に摂関家領寒河江荘,村山郷域付近には摂関家領小田島荘の2荘園がそれぞれ成立したそれ以外の広大な地域が中世国衙領として残った鎌倉期には寒河江荘地頭として大江氏が,小田島荘地頭として中条(小田嶋)氏がそれぞれ土着した郡域中部・北部は荘園化せず,国衙領となったと思われるが,鎌倉期における詳細な情勢は不明である南北朝期には郡域北部は交通・戦略上の要地として,正平年間,立谷沢城(現立川町内)に拠る南朝方の北畠顕信と北朝方の奥州探題吉良貞家の勢力が対峙し,抗争の舞台となった正平6年,出羽国分寺に配置された吉良一族の貞経と北畠氏との間で合戦が起こり,南朝北畠方が勝利している一方南部では寒河江荘地頭大江氏が南朝方で,南朝勢力が強かったが,延文元年(正平11年),奥州管領斯波家兼の次男兼頼が入部し,最上郡山形に築城して,北朝方の立て直しに成功している斯波氏はのちに最上氏を称し,最上郡を根拠に各地に蟠踞した室町・戦国期,郡域北部では新庄盆地を中心として,南に清水(現大蔵村)の清水氏,北西に鮭延城(現真室川町)の鮭延氏,東に小国(現最上町)の細川氏の3者が競った清水氏は最上氏一族,鮭延氏は仙北(現秋田県)の小野寺氏家臣であった最上氏は天正年間,義光の頃積極的に村山・最上両郡の計略に着手し,天正8年の天童氏攻略(天正12年とする説もある)の余勢を以て細川氏を滅亡せしめ,さらに天正9年には鮭延城を攻めて鮭延氏を降した天正12年に寒河江城主大江氏を滅ぼして,最上氏は村山郡全域を制圧した天正18年の豊臣秀吉による奥羽仕置により,最上義光は村山・最上両郡を安堵されている文禄年間,太閤秀吉が検地を命じた際,南を村山郡,北を最上郡とし,古代以来続いた最上郡と村山郡との位置関係が逆転したさらに,江戸初期の正保の国絵図作製の時,現在の村山郡・最上郡に政治上,確定したと思われるただし,同国絵図では,のちに最上郡に含まれる最上川南西部の古口・蔵岡・角川・南山・赤松・堀之内と満沢(小国郷)の各村が村山郡に含まれている過渡期の事情を示すともみられる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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