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最上川


最上氏の領国の拡大によって,最上川水運は一層の進展をみたが,その1つは,村山地方の咽喉部にあたる大石田河岸の発展にみられる。元和9年大石田村検地帳によると,同村には新町・本町・舟町・四日町などの町名がみられ,町ごとにほぼ一定の間口をもっていることから,すでにそれ以前,計画的な町割りが行われたらしい。その後大石田が発展したのは,寛永10年代になって,川船仲継権が清水から大石田に移動したこと,大石田を含む尾花沢領2万石が幕府領となったことなどがあげられる。さらに慶安年間になると大石田船が著しく増加し,この時期に酒田船は上り荷,大石田船(最上船ともいう)は下り荷という「片運送」がはじまったとされている。この「片運送」はその後幕末まで慣行として定着した。また大石田・清水・船町の3河岸に荷宿を認め,そこで商人荷物から運賃の10分の1を取り立てることも定まった。この頃から諸藩の蔵米や幕府領の城米をはじめとする川船による輸送物資も多くなった。新庄藩では元和末年に,約1万1,000石の蔵米を敦賀(現福井県)へ輸送した。城米の江戸廻米を江戸町人の正木半左衛門と伊勢屋孫左衛門が請負ったのも,万治2年が史料的に最も古い。米以外の特産物の移出品や上方からの移入品も多くなった。寛文9年に山形藩が最上川を下して上方方面に移出する商品について荷役を定めているが,それらは大豆・小豆・紅花【べにばな】・青苧【あおそ】・真綿・蝋・漆・荏油・胡麻・水油・紙・葉煙草の12品目にのぼる。最上川舟運の発展の画期は,寛文末年の河村瑞賢による西廻海運の刷新にみられた。河村瑞賢が寛文11年陸奥の幕府領伊達・信夫【しのぶ】(現福島県)の城米を東廻りで江戸廻米することに成功したあと,翌12年,西廻海運による江戸廻米を実施したことは有名である。西廻海運の起点は酒田であり,目的は最上川流域の幕府領の年貢米を江戸に廻送することであった。その方法はこれまで江戸町人などの請負いであったが,これを河村瑞賢を手代として「幕府直廻し」としたのである。この時期を画期として最上川水運の機構は整備され,輸送物資も増大した。大石田問屋の沼沢又左衛門の記録によれば,正徳5年最上川を下した諸藩の蔵米および商人米は33万8,000俵余,ほかに城米が約6万俵余となっている。諸藩の蔵米には,山形・新庄・上山および陸奥白河藩領東根米などが含まれていた。特産物については,寛文8年の酒田沖出しについての山形藩の覚書によれば,紅花は450~460駄,青苧430~440駄,真綿が16~17駄,蝋が52~53駄,漆が15~16駄とあり,最上川が特産物移出ルートとして最大の役割を担っていたことが知られる。また移入品については,天和3年の庄内藩の覚書によると,播磨塩,大坂・堺・伊勢の木綿類,出雲の鉄,美濃の茶などがあげられているが,元禄頃の大石田からの上せ荷物にも,塩・水油・上鯡【にしん】・鮪【まぐろ】・瀬戸物・古手・茶などがある。これらの移入品を内陸部の上流に運ぶについては,酒田船で大石田まで上し,そこでいったん中揚げして荷宿が預り,さらに最上船が最上商人―荷主のところに運ぶという順序がとられたのである。元禄期の発展は川船の数にもみられ,酒田船は正保元年に263艘(すべて4人乗に換算して,218.7艘)であったが,元禄10年には360艘(327.3艘)となった。また最上船(大石田船)も,元禄16年に292(319艘)に達している。しかしこの頃を最大として,公認の川船数は次第に減少していった。元禄期における舟運の発展は,上流の開発にもみられる。元禄6~7年,米沢藩の御用商人西村久左衛門・成政父子が米沢藩領の荒砥から村山郡の左沢,さらに長崎にいたる川筋の普請を行い,置賜から村山に通じる舟運の便を開いた。また米沢藩領の最上川沿岸の要所(糠ノ目・宮・正部)に田屋倉をたて,左沢には米沢船屋敷を設け,手船数10艘を作っている。西村は宝永7年に米沢藩御用商人の召し放ちとなり,その後西村の手船は藩の「御直船」となり,蔵米および特産物なども藩営輸送となった(最上川通船記)。享保8年以前は最上船(主として大石田船)の差配役に大石田有力商人が当たっていた。しかし元禄末年頃から,上郷商人の間に,大石田の独占的な川船差配に反対する動きが強まったため,享保8年,大石田川船差配役を廃止して,漆山村(現山形市)片桐善左衛門など5人の上郷商人・百姓代表による川船差配役を決めた。またそこでは,運賃の一部引下げ,入会【いりあい】運送の実施,川船の定数および新河岸として寺津(天童市)・本楯(寒河江市)・横山(大石田町)の設置を認めた。これらは上郷における商品流通や商人の発展に照応するものでもあったが,入会運送や川船の定数を維持することは困難な問題であったようである。享保8年以後,大石田の川船差配役は排除されていたが,延享4年には7人のうち2人は大石田から参加するようになり,宝暦10年に川船差配役が年季請負・入札制となると,上郷8人,大石田8人が選ばれている。請負・入札制以後,川船差配役の交替がはげしくなり,宝暦~天明年間に8回,延べ33人が登場した。大部分は郡内の商人,宿場商人であったが,関東の商人も一部参加している。しかし享保期以後川船数は減少し,その統制も混乱した。最上船数(艜【ひらた】船)は,享保6年に176.0艘(4人乗250俵積として計算)であったが,宝暦11年には131.8艘,天明末年には110.8艘となっている。また宝暦8年の種目別積船の延数は,城米が最も多く360艘,私領米160艘,商人荷物320艘(下し荷のみ)で合計840艘であった。また商人荷物をさらに河岸別にみると,寺津145艘,大石田65艘,清水50艘,寒河江・船町各30艘となっている。天明年間になると,商人荷物の減少および川船の減少によって川船差配役制も次第に行き詰まった。その間に,大石田荷宿たちは,安永8年冥加金の上納を条件に積替問屋株を大石田に設けることを願い出ている。これは以後幕府への運動として天明末年まで続けられたが,上郷の船持・商人の反対もあって成功しなかった。しかし寛政4年に幕府は船持・商人の要求をうけて,従来の請負差配役を廃止し,幕府の「直差配」とすることにした。そのために大石田川船役所を設置し,尾花沢代官所の管轄としている。川船役所の設置の目的は,幕府領・私領の廻米を円滑にすること,商荷の運送の統制を図るためであったことはいうまでもない。川船役所は実際の川船統制にあたるため,船会所を付属させ,そこには船方惣代を勤めさせた。初代惣代は大石田本町の荷問屋安太郎であった。この幕府の川船統制の強化は,最上船の増加にみるような成果があったが,初代船持惣代が病死する文化8年頃から川船運送の秩序は再び混乱しはじめる。船持惣代安太郎の時代から,とくに上郷船持の間に船会所運営に対する批判が出され,惣代2人制を川船役所に願書してそれが実施された。結局,上郷・下郷船持商人の対立などから,文化8年以後は仮惣代が続き,それも3~6人の複数となっている。文化・文政年間の仮惣代をめぐる問題は,荷物の隠積み,川船役所下役人の不正あるいは川船会所における船方勘定の不足などの混乱にみられる。艜船の経営をみると,近世中期には,城米・私領米および商人荷物を積み下ろした場合,運賃収入から諸経費を差し引いてすべて得分となっていたが,これが後期には,前の2項目は常に損分となり,商人荷物だけが得分になるという会計に変わっているのである。それだけ船持の経営が苦しくなっているということである。このことが公認の艜船数の減少の根本的な原因であった。天保3年に最上艜船株が設けられたのはそれに対する対応とみられる。その議定によれば,艜船は82艘(うち9艘は休船)と定め,そのうち16艘は5人乗,57艘は4人乗とし,廻米輸送の確保を図るとともにその経営を保護するのが目的であった。これらの船株の大半は大石田に集中しているが,この頃の河岸の動きの中で注目されるもう1つのことは,天保7年の大石田河岸荷問屋仲間の成立である。その仲間商人は二藤部兵右衛門・庄司清次郎・高桑幸助・富樫久兵衛など32人であるが,彼らは年々荷問屋株金(河岸冥加金)として,永5貫文余を納入することとし,その負担は,全体の3分を人数割,7分を出荷高割と定めている。荷問屋の出荷量は年によっても変動があるが,天保8年の場合は最高が二藤部家で4,682俵余,2位が富樫家で2,538俵余(すべての荷物を米俵に換算したもの)となっており,その出荷量には大きな差があった。無株のものは荷物取扱いを禁じた。幕末における舟運機構の問題として注目されるのは,とくに河岸間の紛争,艜船所有の変化および小鵜飼【こうかい】船の台頭をめぐることなどである。河岸の紛争としては,天保7年頃にはじまる船町問屋阿部孫市による上せ荷の独占的輸送をめぐって,これに反対する寺津河岸との対立があった。両方からの訴上によって,幕府評定所がこれをとりあげ,天保13年に一応の落着をみたが,その後も羽州街道の6か宿が船町問屋の輸送独占に反対するなど,問題は幕末まで続いている。問題は,船町が下総佐倉藩領の河岸として,その特権的な保護のもとに発展し,中期以後最も発着荷物の多い寺津に打撃を与えたことから起こったものである。天保13年の落着も,幕府の天保改革の影響によるもので,たとえば,諸商品の値段はできる限り安値となるようにすること,寺津河岸の売分および山形商人がその周辺で売りさばくものは寺津揚げとし,山形商人が酒田で仕入れた山形行の荷物はすべて船町揚げとすること,また船町村の酒田出張所は廃止することなどを取り決めている。しかし荷争いはその後も船町問屋の「丸積買切」や紅花川下げをめぐって問題化した。これらはいずれもこれまでの慣行を破る行為であったのである。船持層の分解は,主として大石田河岸の内部の問題でもあるが,安政6年の最上船所有の階層をみると,全体で71.6艘のうち,16艘持・11艘持・9艘持に各1人があらわれ,一方1艘持が13人余(いずれも4人乗1艘として)で,このような集中は天保以前にはみられないことであった。また小鵜飼船の増加と本流への進出が化政期以後しばしば問題となっている。小鵜飼船は最上川上流(松川)および支流で主に使われ,本流での就航は禁止されていた。天保3年の記録では,船町所属ほかの小鵜飼船は19艘であった。明治7年の「山形県一覧概表」に,艜船101艘に対して,小鵜飼船274艘と増加しているのは,もちろん明治5年,幕藩制的諸制度の撤廃とともに大小船の本流通航が自由となったためであるが,明治5年以前にも多数の小鵜飼船が私船として事実上の活動をしていたものとみられる。明治3年に小鵜飼船差押一件という事件が起こっているが,これは貝塩【かいしゆう】村(明治11年に下山口村と合併して河島村と改称,現村山市)の者が上流の長崎村(現中山町)へ,小鵜飼船で夫食米・肥物を運搬したことに対し,同年8月,六田宿問屋と宮崎宿問屋が手下【てした】のものとともにこれを差し押えたことによって問題になった事件である。この段階ではまだ,村山郡内といえども小鵜飼船の本流輸送は建前としては許されないことであるが,事実上の小鵜飼船の利用は次第に多くなっていたのである。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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