山寺村(近世)

江戸期~明治22年の村名。はじめ遊佐【ゆざ】郡,寛文4年からは飽海【あくみ】郡のうち。はじめ上杉氏領,慶長6年最上氏領,元和8年庄内藩領,寛文3年からは松山藩領。川北組に属す。村高は,元和8年の御知行目録では82石余,寛永元年の庄内検地高辻493石余,「天保郷帳」289石余,「旧高旧領」290石余。延享3年百姓の作助は100歳になり,藩から米・若餅が下賜された(松嶺町史年表/松山町史年表)。元和年間に創建された皇太神社は藩主の祈願所で大日孁貴命を祀っている。文化元年には社殿が再建された。ほかに白山大明神があり伊邪那美命を祀っている。曹洞宗東林山宝蔵寺は,永享年間能登国(現石川県)総光寺2世湖月自音大和尚によって創建された。もとは真言宗であったが寛文3年曹洞宗に改宗。当寺には松山藩の砲術家であった川上寅記の墓碑がある。鶴岡県を経て明治9年山形県に所属。同年外里【とのさと】村ほか4か村を合併。同年白山大明神が白山神社と改称。同11年の一覧全図では,反別334町4反余,戸数210・人口1,173,諧鳴学校がある。同16年戸長選挙会が開設され,戸長に木村良作が当選(五十嵐日記/松山町史年表)。明治11年飽海郡に属し,同22年上郷【かみごう】村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7265174 |