遊摺部村(近世)

江戸期~明治22年の村名。田川郡のうち。はじめ上杉氏領,慶長6年最上氏領,元和8年からは庄内藩領。狩川通に属す。村高は,万治2年161石余(飽海郡誌),寛文8年153石余(大泉紀年),「天保郷帳」118石余,「旧高旧領」122石余。幕末期の「弐郡詳記」によれば,免2ツ,家数52軒。当村は,遊摺部楯主が退転するといったん廃村となったが,万治2年南口村(現余目町大字余目字南口)の梅木伝兵衛・大多与右衛門によって再び開拓された。また当村は最上川の洪水の被害を受けるため,寛文6年には新川を開削している。寛文8年には村切替えが行われ,村高153石余,家数30軒,うち高90石・家数18軒は漆曽根大谷地に,高38石余・家数6軒は「辻かうや谷地」に替地となった(大泉紀年)。しかしその後も洪水は治まらず,大多与右衛門はさらに川北を開墾して大多新田を作った。元禄6年から宝永7年までの18年間に,川欠により69石余の田畑が損失している。このように当村は洪水との闘いが続き,宝暦8年・天明6年・寛政4年にはそれぞれ新川が開削されたが大きな効果はなかった。寛政年間には丸沼村の一部を開拓して移住しており,当初の位置よりも南に300間余も退転し,川欠高は79石余にものぼったという(飽海郡誌)。弘化2年3月の被害は特に大きく,一夜のうちに16軒が流され,同年7月にも再び洪水に襲われて3軒が流された(遊摺部村史)。これにより嘉永5年総費1,054両余をかけて五丁野【ごちようや】谷地(現大字小牧字南五丁野・北五丁野)に全村移転した。その坪数2万3,750坪(県史12)。総費用1,054両余のうち640両は庄内藩の扶助による(飽海郡誌)。この地一帯は中平田村などの所有地であったため,利害の対立から問題が生じた。しかし明治8年住宅地と付属の畑が無償で払い下げられ,同9年には五丁野一帯が当村の所有地となった(同前)。家数は万治2年42軒(同前),寛文8年30軒(大泉紀年),幕末期の「弐郡詳記」によれば,免2ツ,家数52軒。神社は,永正年間武藤氏が伊勢国(現三重県)から勧請したと伝えられる皇太神社,万治年間大野善久が安置したという四所大権現がある。四所大権現は明治6年春日神社と改称。明治4年の村鑑(飽海郡誌)によれば,村高118石余,反別19町4反余,家数48軒・人口301(男154・女147),牛1。運上として鮭鱒永40文・八ツ目漁永100文・蝋漆代永53文余を納めている。農間余業は男は川漁,女は布織り。鶴岡県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図では,反別25町8反余,戸数53・人口348,菅井学校がある。明治11年飽海郡に属し,同22年西平田村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7265222 |