塩川村(近世)

江戸期~明治22年の村名。耶麻郡のうち。会津藩領。塩川組に属す。村高は,文禄3年の蒲生高目録で816石余,文化15年の村日記(県史10下)では1,045石余,「天保郷帳」1,041石余,「旧高旧領」794石余。化政期の家数169軒,端村上江【うわえ】16軒(新編会津)。村内には古町・中町・新町・新丁の小名がある。慶長13年米沢街道の駅所となる。検断および肝煎は蘆名氏の旧家臣と伝える栗村家の世襲。端村上江には栗村弾正清政が住したという館跡があり,東・西・北の三方に土居の形が残っている。江戸初期,耶麻郡塩川・五目・慶徳・小荒井・小田付・小沼・熊倉,河沼郡笈川・青津・牛沢・坂下の11組から出す廻米の運送に苦しんだが,貞享元年当村の肝煎栗村権七が会津藩に請い,日橋川の川筋を普請して船路を開き越後国新潟港を経て大坂に至る水運を開いた。権七の子孫は代々当村の肝煎をつとめた(新編会津)。村内に米倉5があり,うち社倉1,塩川組の米倉1・五目組の米倉1,大坂廻漕米の米倉2。そのかたわらに船小屋と番所があった。村内では,馬市・詰市が開かれ,近在の商業の中心地でもあった。また特産品として鋏がある。神社は荒神社。同社は天喜年間源義家が安倍氏を討とうと祈願し,熊野三社を河沼郡熊野堂村に建立,のちこの地に勧請したと伝える。ほかに諏訪神社。寺院は天文年間の開基と伝える浄土宗塩泉山阿弥陀寺。明治3年端村上江を上江村として分村。若松県を経て明治9年福島県に所属。戸数・人口は明治13年226・1,189(県治統計表),同20年245・1,252。明治12年耶麻郡に属し,同22年市制町村制施行後も1村として存続。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7267794 |