須賀川町(近世)

江戸期の町名。岩瀬郡のうち。古くは牛袋荘川中郷に属したという。はじめ会津領,寛永20年からは白河藩領。天正17年須賀川城の落城後,新しく町造りが行われた。中世以来の須賀川城下町の古町に牛袋村の町人が移住して本町とし,廃城となった二の丸跡に中宿村から町家を移して中町とし,三の丸・搦手【からめて】跡に下宿村の町家を移して北町とし,時宗金徳寺の門前町を道場町と称して,4つの町割を定め須賀川宿を設置したといい(野川本藤葉栄衰記),文政6年の須賀川差出帳には「古城跡に付き従来より町と相唱え……諸帳面へも須賀川町と認め来り」とある(県史3)。村高は,文禄3年の蒲生高目録では3,178石余,古領高長では,須賀川本町767石余,須賀川中町949石余,須賀川北町527石余,石川之内道場町189石余とある。「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」とも「須賀川村」とあるが,本町・中町・北町・道場町の総称で,村高は2,458石余。慶安年間頃に須賀川に代官を置くようになり,郷士筆頭の相楽七郎兵衛が代官に起用され(相楽家文書),その後北郷代官が設けられ,その下に町会所が設置された。須賀川全体の行政事務はこの町会所において処理され,運営は代官加役・大庄屋役・検断・庄屋・高年寄・年寄などの町役人が月番制で担当した。町会所の業務内容は,商物の値段決め,銭相場たて・運上収税など。会所の財源ははじめ質屋運上金が,のちに白河藩領民救済金信託・町益金預託などの利息により莫大な資金を蓄積したため,近辺諸藩に対して財政的に大きな影響力をもった(内藤家文書/県史3)。寛保2年の家数・人数および馬は,本町269軒,男583・女518,22匹,中町262軒,男472・女408,北町127軒,男312・女259,15匹,道場町170軒,男140・女119,3匹。延享3年の家数487・人数2,822(矢吹家文書)。元禄2年4月松尾芭蕉は須賀川の俳人相楽等躬を訪ね「風流のはじめや奥の田植唄」をしたため,徳善院の僧栗斎を句にした「世の人の見つけぬ花や軒の栗」などを残した。また当町の農具商の次男に生まれた亜欧堂田善は,日本洋画の先駆者で,寛政6年白河藩主松平定信に仕え,江戸藩邸において主に銅版画を製作し,のち幕命より万国総界全図を完成させた。明治9年当町内の本町・中町・北町・道場町が合併して,須賀川村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7268275 |





