福島村(近世)

江戸期~明治4年の村名。信夫郡のうち。はじめ会津領,慶長6年出羽米沢領,同8年米沢藩領,寛文4年幕府領(福島代官所支配),延宝7年からは福島藩領。村内には福島城下を形成する町場がある。村高は,文禄3年の蒲生高目録では福嶋として759石余,元和元年の高物成之帳でも759石余,古高新高帳では1,050石余,「天保郷帳」986石余,「旧高旧領」1,006石余。天正19年10月当地域は蒲生氏郷の領地となり,その家臣木村吉清が当地を中心とする5万石を領有した。文禄年間に木村は大森城から杉妻【すぎのめ】城に移り,これを福島城と改めたが,のち蒲生氏の直轄地となった。その後,上杉氏の支配した時代には福島城代が置かれた。慶長年間の邑鑑(県史9)によれば,家数305軒,うち役家199軒,肝煎・検断・小走21軒,諸職人・寺山伏・座頭・脇家85軒,人数2,172。寛文~延宝年間に行われた信達総検地では村高1,048石余で,検地帳に村内の町場として,大学【だいがく】町・荒町・中町・本町・上町・北町・南町・新【しん】町の8町が見える。福島藩が立藩された翌年の延宝8年2月には城下8町の検断と市場役人に「市場庭銭の事」を布達し,8町交替で市日を定めて市を立て,城下入口での勝手な取引を禁じ,庭銭を課している。のち,堀田氏時代に大学町は鍛冶町と合わさって柳町となり,北町・南町は北南町,新町は上町差配となったほか馬苦労町が加わり7町制となった。元禄15年福島藩主として入封した板倉氏は城下町の整備に尽力し,大手門や石垣を修築して,郭内の入口および城下に木戸を設けた。また上町に高札場,本町に本陣・脇本陣および問屋場を設けた。元禄16年の村明細帳では,家数640軒・人数4,261,馬79。福島藩領の総鎮守は稲荷神社で,上町の北側に位置したが,腰浜村の地内であったため,藩は腰浜村に年5両を地代として与えた。寺院は,柳町・荒町・中町・上町の裏通りに集中し,曹洞宗常光寺・真言宗真浄院・浄土宗誓願寺・真宗康善寺・浄土宗大円寺・真言宗常福寺・曹洞宗東安寺・真宗西蓮寺・浄土宗到岸寺・臨済宗慈恩寺などがあり,東裏通りには時宗宝林寺が,さらに城下の東端には曹洞宗宝積寺・同宗長楽寺があった。当地は交通の要所で,物資の集散地として商業が栄え,とりわけ信達地方における養蚕業の発達により,蚕種・生糸・絹織物を扱う問屋が軒を連ねていた。また,阿武隈川舟運の起点で河岸が設けられ,福島藩のほか,米沢藩や会津藩の廻米なども扱った。在方と町方が接する柳町・荒町などでは商店が繁盛し,北南町では飯盛女を擁する旅館や茶屋が繁盛した。慶応2年の世直し一揆では,藩の御用商人であった主な蚕物屋などが打毀された。明治4年福島町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7269949 |





